東京シューレの見解について


貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解東京シューレ
参照 id:hikilink:20050410 id:deneb:20050410#p1 id:snusmumrik:20050410

自分はこの出来事の当事者ではない。だから、たとえ知っていても言えることはあまり多くない。見解文から読み取れることに絞ってエントリしたい。


貴戸の本が東京シューレへの批判であると見解文は主張するが、いったいどこが批判なのか疑問だ。貴戸の本が「市民運動がやってきたことの否定」であるというのも理解しがたい。(貴戸は)「巧妙に「不登校は病気である」と受け入れるように促している」という所などは、被害妄想としか思えない。(そんなことが一体どこに書いてあるのか教えて欲しい)


「「明るい不登校」と明るくない不登校などと分断している」と貴戸を批判しながら、「不登校経験者にとって」と不登校を一括して論じている。人を批判しつつ、同じ事を自分たちは平気で行っている。この辺りは信じられないほど鈍感だ。


これらは、このブログで以前にあったKさんとのやりとりと気持ち悪いほど似ている。
参考:id:about-h:20050401


「「当事者」である自分こそが新しく正しい問題提起ができる」という批判もKさんと酷似している。Kさんは「ボランティア」が良いと言っていたが、これはきっと一発ギャグだったと思うので置いておくとして、当事者によって問題提起が出来ないのに、支援者や親によって正しい問題提起が出来てしまうのかということを真剣に考えた方がよい。貴戸のことを「自分についての分析は皆無に等しい」と批判する前に、なぜそのことを自分に問わないのだろうか?


この見解文で、一番考えるべきところは当事者による貴戸批判だ。


東京シューレという団体の公式見解に当事者の声が載るということ。このことをまず考えなくてはならない。


この見解文を読むと貴戸が当事者を騙したという構図を思い浮かべてしまう。しかしその構図は正しいようには思えない。


修論→出版で2人のケースレポートが本人の要請によって削られた。今回の重版で削除を要求した人はこの時に削除を出さず、東京シューレが貴戸の本を糾弾してから、削除要求を出した。そして東京シューレという団体の公式見解に自身の名前入りの文章を載せている。


見解文を読んで彼らは被害者なんだと思う前に、彼らの行為が極めて政治的な行為であることを見落としてはいけない。


東京シューレが圧力をかけたり代筆をしたというわけではないだろう。しかし、今の不登校業界の中にいて、このような状況になってしまえば、「状況」によってこのような行動が噴出してしまうのではないかと思う*1。当事者による2つめの文章の後半では、人称が「私たち」(自分+東京シューレ)となっている。このことに今回の見解文の当事者がどういう位置づけなのかということが現れていると思う。


彼らは削除要求をしているのだから批判されるべきではない。当然の権利であると思う。しかし、削除要求以上のことを東京シューレの公式見解で当事者を名乗り発言する政治的責任は負わなくてはならない。このことは是非記しておきたいと思う。


東京シューレが貴戸を批判し、262カ所の修正リストを出し、インタビューを受けた当事者が東京シューレの公式見解で貴戸を批判したことはハデであるため、目を奪われがちだ。しかし、重要なのはそこではない。重要なのは原点に戻ることである。


貴戸理恵不登校は終わらない』という本が本当に東京シューレを批判していたのだろうか?ということを考えることが私たちがすることだ。そしてなぜ東京シューレが糾弾を始めたのかということ。それを考えたときに、おそらく今回の出来事がクリアになって見えてくるのだと思う。

*1:誰が具体的に何をしたかということは推測するしかないが