ひきこもりは弱者か?

ひきこもりは弱者なのであろうか?


ひきこもり状態では「学校に行けない!」「外に出られない!」「働けない!」「何かしなくちゃいけないんだけど何も出来ない!」という思いを当事者は永遠と抱え続ける。「外に出る」「働く」といった目標を立てて、実行しようとするが、体が動かなくて、結局、目標を達成できなくなる。そしてよりいっそう自信を失っていく。


しかし、よく考えてみると、もし、学校に行くことが普通でなくて、働くことが普通でなくて、毎日何かしなくちゃいけない訳でなかったら、悩む必要なんて無い。そして無駄に目標をたてたり、自信をなくしたりするも必要はない。そもそもひきこもり状態はダメなものとしてみなされないし、そういう状態は「普通」とみなされるはずだ。


ひきこもりが(道徳的に)嫌悪されたりするのは「ひきこもり」という状態が社会的に「そうあってはいけない状態」だから。


社会が変われば「ひきこもり」は許容されるし、道徳的に悪いことだとみなされない。そういう社会ならば、ひきこもり状態にある人たちは家族や知り合いから白い目で見られることもないし、自分で自分を否定し続けなくてもよい。「働かない自分」や「外に出ない自分」に嫌気がさしたり、自信を喪失していくこともないだろう。



id:ueyamakzkさんは「「養ってもらって、拘束もない」という羨ましい身分」*1と議論を提示している。これは、常人には「ひきこもり状態」が羨ましく映るという指摘だ。確かに、山積みの仕事を前に逃亡したいと思う人は多いだろうし、そういう人にとって、働かずに親に養ってもらっている人たちは「羨望の的」になるかもしれない。


しかし「羨望」ではあるが実行はされることはない。なぜなら、仕事をやめて家に篭もるということは「そうあってはいけない状態」と認識されているからだ。だから、根底には「そうあってはいけない状態」という道徳的な禁忌がある。「やりたいのに出来ない」*2+「そうあってはいけない状態」=「羨望」なのだろう。


社会的な価値観が変われば「ひきこもり」は許されるし「普通」の行為となる。しかし、現在では依然として「ひきこもり」という状態は禁忌される状態と考えられている。では、ひきこもりは「糾弾」されているのだろうか?


「普通」ではない状態であって、道徳的に許されない状態であったとしても「糾弾」という言葉で言い表すのは不適当であるように思う。例えば、知り合いの子供がひきこもってるというと「大変ですねぇ」とやや同情混じりの感想が出る。ひきこもりを出した知り合いに向かって「糾弾」をしたり、縁を切ったりはしない。むしろ「同情」だ。それに、「ひきこもり」には「対人恐怖があるんだ」「外に出たいんだけど外に出られない」という説得文句がそれなりの力を持って機能している。


「ひきこもっててはダメだ」という説教はあり得たとしても、道徳的糾弾の対象にまではなっていない。わかりやすい例を上げてみるならば、JR西日本に対するバッシングのようなもの。こういう「糾弾」はひきこもりに対して行われていない。


ただ、この「糾弾にならない説教」は問題をはらんでいる。というのは、ひきこもりを「出来ない人たち」とみなしているからだ。要するに、ひきこもりとは病気のようなものであって「ひきこもり=弱者」としての位置づけが与えられている。


JR西日本天下り官僚に対して噴火のようなバッシングが向けられるのは彼らが「強者」であると認識されているからだろう。道徳的に許されないことが起きると、「正義」の名の下に「糾弾」が開始される。つまり、相手が「強者」であれば「糾弾」がなされ、相手が「弱者」ならば「説教」がなされる。


「ひきこもり」には「糾弾」ではなく「説教」というのは、ディフェンスする側としては少しは楽だ。まだ対策の立てようがある。しかし、ディフェンスが楽だからと言って、この構図に乗っかってしまうと「ひきこもり=弱者」という構図を知らないうちに受け入れてしまうことになる。


だから「ひきこもりは弱者か?」と問うてみる必要があろう。


「ひきこもりは弱者か?」という問いへの答えは、やはり社会的な位置づけ次第ということになる。ひきこもることで給料がもらえる世界があるなら、ひきこもりは弱者とはみなされない。結局の所、「弱者」といっても「構造的に規定された弱者」なのだ。


もちろん、すべての「弱者」は「構造的に規定」されている。ひきこもりに限ったことではなく、学校に行かないことが普通のことである社会では不登校は問題にはならないし、不登校児童は弱者とはみなされない。身体障害者に関しても同じである。第三世界の問題でも世界の力関係(=構造)によって、アフリカをはじめとした第三世界が弱者となっているだけなのだ。


弱者というものは元来そのようなものだ。構造的に弱者となっているだけであって、ひきこもりが本来的に道徳的に許されないことでも、弱者であるわけでもない。


弱者とは構造的に、そして道徳的に決定される。構造的に「弱い立場に立つ者」と言い換えても良いだろう。弱者とは本来的にそれ以上でも以下でもない。

*1:http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040820#p6

*2:ひきこもり生活を体験すれば「やりたい」などはきっと思わないはずなのだが、知らないからあこがれるという要素があるのだろう。上山さんが引用している主婦も大変な仕事だ。三食昼寝付きの生活を送ることが経済的に可能なのは、夫の収入がある程度高い階層に限られ、専業型の主婦は3割程度である