社会構築主義
「ニート」というとこんなイメージがある→
世間の人は「働かないダメな奴ら」というイメージを持ってしまってる気がする。「ニート」の主力勢力は「ひきこもり」。だから「働かない」ではなく「働けない」のが実状。決して怠けてる訳じゃない。この写真の彼はどうなのかはよく知らないけれども。
id:hikilinkさんと同じく、私も「ニート」概念の支配が、真に深刻な引きこもり当事者の問題を隠蔽し、忘却を促してしまうことを危惧しています。
id:ueyamakzk:20041230#p2
五条通信さんのところでは「ブーム」という言葉が使われてる。id:hikilink:20041228#p2
社会学の伝統的な言葉で言い表すなら実態と意識*1の乖離になるだろう。つまり、実態として「ひきこもり」は無くなったわけではないのに、人々の意識の中で「ひきこもり」は消え去ってしまうという問題だ。
この点に関して、社会学は「社会構築主義」という考え方をするはず。社会構築主義とは実態が存在するのではなくて言説のもが存在するという考え方だ。*2
例えば、少年犯罪が社会的に問題になっているのは、実際に少年犯罪が増えたとか凶悪になったと言うのではなくて、社会の言説として「少年犯罪の増加」というようなものが構築されるので、少年犯罪が社会問題化すると考えられる。
「クレーム申し立て」活動。つまり、どっかの誰かが「こういう社会問題がある」という「クレーム」を申して立てることによって「社会問題」は構築されるんだと考える。これが「社会構築主義」の立場だ。
従って社会構築主義の立場では社会問題が実態を伴っているとは考えない。「ひきこもり」の場合も同じ。現在はやや沈静化している感があるが「ひきこもり」が社会問題化しているのは「ひきこもり」を問題視している人が多数いるということを示している。
世間的で言われているひきこもりのイメージは、全く部屋から出ずに部屋の中はぐちゃぐちゃというものだけども、「ひきこもり」の中でこのようなひきこもりは決して多くない。世間が社会問題化にしているひきこもりとはそういうひきこもりなのだ。だから、現在の社会問題化しているひきこもりも、実態とは異なった構築物でしかない。(社会構築主義は実態を認めないけども)
社会構築主義の立場から言えることをいくつか記述
あくまでも実態が問題だ
「ひきこもり」という言葉が使われなくなったことに対して警告を発し、あくまでも実態としては数十万の「ひきこもり」が存在するというアピールをすること
言説構築の背景を考える
ひきこもり→ニートへの人々の意識の動きについて考える。これは当事者ではなく社会に対しての分析。社会の不景気が原因となって「働かない若者は許せん」という素地があって社会問題化されているのだろう。社会学にとっては扱いやすい問題のような気がする。
現在の「ひきこもり」構築の問題
さきほども書いたように社会問題として構築されている「ひきこもり」は実態と異なる。また、ひきこもりを更正させるという考えの元、引きずり出してどこかに拉致するというものや、お遍路さんをやらせるストーリーを彼らに負わしている。「真人間になりました」系の物語を「ひきこもり」たちに負わせるのは間違っているのではないか?
当事者の動き
「ニート」の流通によってようやく就労問題を前面に論じることができるようになった、といういきさつがあります。
id:ueyamakzk:20041230#p2
「働け!」ということを言いやすくするために「ニート」という言葉が機能するなら、当事者は自己規定を「ニート」とせずに「ひきこもり」する可能性がある。つまり、ニートと自己規定すると「働きに行かないといけない」という圧力が生まれるので、そこから「ひきこもり」の当事者は「ひきこもり」と自己定義することによって就労から逃げようとするのではないか、と推測できる。
実際に「ひきこもり」の当事者が自身を「ひきこもり」だと定義している訳では無いだろうけども、ニートという言葉がひきこもりの当事者や親に何らかの影響を与えるのは確実だろう