イギリスのひきこもり

現代のエスプリ別冊『ひきこもる若者たち (うつの時代シリーズ)』の対談で少しだけイギリスについて触れられている。昨日、このことを友人と話していたので少しだけメモ。

斎藤環

 ただ、欧米と一緒くたにできないのは、たとえばイギリスはまだ日本に近いところもあって、BBCがひきこもり番組やったら、たくさんのお母さんが、うちの子も全く同じですという反響をもらったと聞きましたけれども、そういうひきこもり的な生活形態というのは、貧困層はさすがに無理としても上流階級の富裕な家庭には結構見られるんじゃないでしょうか。

−−座談会「ひきこもりの現在」,『ひきこもる若者たち (うつの時代シリーズ)』: 34


上流階級ではないが、イギリスの中流階級で男女一例ずつのひきこもりを知っている。日本人が英国でひきこもるというのではなく、英国人(白人)が英国でひきこもるという例として。


そのうち一例は「イジメ」が原因。
イジメ→不登校→ひきこもりという移行。可能性のある精神障害を一つずつ確かめたところ該当しなかったのでおそらく「社会的」ひきこもりだろうと思われる。


もう一例の原因は不明。ひきこもり脱出後、郵便局に勤めるも、再度ひきこもり。職場でのコミュニケーション面での衝突もなく周りはなぜ働くのをやめたのか理由が分からないとのこと。ただし、こちらの例は情報が少なく、社会的ひきこもりで無い可能性が捨てきれない。


西欧では若者は親から自立をするという「規範」がある。これは間違いない。
しかし、親の立場に立って考えてみると、我が子が社会的ひきこもりになったからといって家から放り出すだろうか?。
社会的ひきこもり状態にある人間が、家を出て、独りで生活していけないことは親も分かるだろう。放り出すという選択は我が子の「死」を意味している。いくらなんでもそういう選択をとる親はいないのではないか?

「行為」と「当為」(〜すべき)は異なる。たとえ「当為」において「放り出すべき」となっていても、必ずしも放り出される訳ではない。日本でも「子供がいつまでも働かずに家でひきこもり生活をしていてはいけない」という「当為」はあるが、親が放り出すという「行為」は行われない。

イギリスでも中流階級以上の家庭では、社会化できない若者の抱え込みが存在しているのではないかと推測できる。


日本でも「ひきこもり」という単語が浸透する以前には、社会的ひきこもりの存在は知られてなかった。社会問題化されない一方で、実態としては存在するということがイギリスでも起こっているのではないだろうか。

19歳男性「長田塾」を提訴

不当な暴力行為、プライバシー侵害 19歳男性「長田塾」を提訴

子どもの不登校、ひきこもり、非行の問題を、親になり代わって解決すると宣伝し、名古屋市内で親と子どもの「メンタルケア」の事業をしている「長田塾」(有限会社塾教育学院)とそれを主宰する長田百合子氏に対し、19歳の男性が不当な暴力的扱いとプライバシーの権利を侵害されたとして慰謝料の損害賠償を求める訴えを7月22日名古屋地裁に提起した。


裁判沙汰。
さて、どうコメントしたらいいものか・・・


長田百合子は、正しくひきこもりれば社会参加できると不介入を根拠無く言っていた芹沢俊介の対極にある人だろう。芹沢の言葉は当事者や経験者にとって舌触りが良く支持されやすい。しかし、独力で出てこられないひきこもりは放置することになるのだということを忘れてはならない。


芹沢的な放置と長田的な介入。


芹沢の意見はあまり変わっていない一方で、長田の方法は徐々に変わっているようにも感じる。長田百合子を支持することできないけども、否定するのも安易であるように思う。

スーパーテレビ「衝撃!ひきこもった息子…その時家族は」

登場した親がダメすぎる。

当事者に殴る蹴るの暴行を加えながら、父親はこんなことを言ってた。

なんだ、痛い?
おまえの何倍、痛いおもいをしてると、分かってるのか、お父さんが!
おまえのこんなのは痛いのうちに入るか!
おまえ、どれだけ周りの人に痛いおもいさせたか分かってるのか!おい!

「オレの方がおまえより何倍もツライ」と子供に八つ当たり。
こんな暴力を「親の愛」として放映して良いのか。

「ひきこもり」であればこんな非道い暴力を振るわれても当然だとみなされる。暴力を振るわれているのがひきこもりでなければ、父親の行動は当然だなど思われないだろう。ひきこもりの当事者だから、暴力を加えてもその暴力は正当だとみなされている。


これは「差別」ではないか。


制作者サイドに「差別意識」を強く感じる。非常に腹立たしい。

デザイン

デザインを変えてみた。
(自分のはてなを印刷しようと思ったら上手く印刷できなかったため)

今回はテーマを使わずCSSを最初から_〆(。。)カキカキやったけども、やたらといじりにくい。やっぱり、はてなはいじりにくいですなぁ。

なんだか地味だし、もうちょっと手加えないと正直キツイ(^_^;

長田百合子

スーパーテレビ・情報最前線
「衝撃!ひきこもった息子…その時家族は」
http://www.ntv.co.jp/supertv/01_week_contents/050725/next_week/week.html


内容はいつも通りなのだろうけども、今夜22時から日本テレビ系列で放映するそうです。

ひきこもりは弱者か?

ひきこもりは弱者なのであろうか?


ひきこもり状態では「学校に行けない!」「外に出られない!」「働けない!」「何かしなくちゃいけないんだけど何も出来ない!」という思いを当事者は永遠と抱え続ける。「外に出る」「働く」といった目標を立てて、実行しようとするが、体が動かなくて、結局、目標を達成できなくなる。そしてよりいっそう自信を失っていく。


しかし、よく考えてみると、もし、学校に行くことが普通でなくて、働くことが普通でなくて、毎日何かしなくちゃいけない訳でなかったら、悩む必要なんて無い。そして無駄に目標をたてたり、自信をなくしたりするも必要はない。そもそもひきこもり状態はダメなものとしてみなされないし、そういう状態は「普通」とみなされるはずだ。


ひきこもりが(道徳的に)嫌悪されたりするのは「ひきこもり」という状態が社会的に「そうあってはいけない状態」だから。


社会が変われば「ひきこもり」は許容されるし、道徳的に悪いことだとみなされない。そういう社会ならば、ひきこもり状態にある人たちは家族や知り合いから白い目で見られることもないし、自分で自分を否定し続けなくてもよい。「働かない自分」や「外に出ない自分」に嫌気がさしたり、自信を喪失していくこともないだろう。



id:ueyamakzkさんは「「養ってもらって、拘束もない」という羨ましい身分」*1と議論を提示している。これは、常人には「ひきこもり状態」が羨ましく映るという指摘だ。確かに、山積みの仕事を前に逃亡したいと思う人は多いだろうし、そういう人にとって、働かずに親に養ってもらっている人たちは「羨望の的」になるかもしれない。


しかし「羨望」ではあるが実行はされることはない。なぜなら、仕事をやめて家に篭もるということは「そうあってはいけない状態」と認識されているからだ。だから、根底には「そうあってはいけない状態」という道徳的な禁忌がある。「やりたいのに出来ない」*2+「そうあってはいけない状態」=「羨望」なのだろう。


社会的な価値観が変われば「ひきこもり」は許されるし「普通」の行為となる。しかし、現在では依然として「ひきこもり」という状態は禁忌される状態と考えられている。では、ひきこもりは「糾弾」されているのだろうか?


「普通」ではない状態であって、道徳的に許されない状態であったとしても「糾弾」という言葉で言い表すのは不適当であるように思う。例えば、知り合いの子供がひきこもってるというと「大変ですねぇ」とやや同情混じりの感想が出る。ひきこもりを出した知り合いに向かって「糾弾」をしたり、縁を切ったりはしない。むしろ「同情」だ。それに、「ひきこもり」には「対人恐怖があるんだ」「外に出たいんだけど外に出られない」という説得文句がそれなりの力を持って機能している。


「ひきこもっててはダメだ」という説教はあり得たとしても、道徳的糾弾の対象にまではなっていない。わかりやすい例を上げてみるならば、JR西日本に対するバッシングのようなもの。こういう「糾弾」はひきこもりに対して行われていない。


ただ、この「糾弾にならない説教」は問題をはらんでいる。というのは、ひきこもりを「出来ない人たち」とみなしているからだ。要するに、ひきこもりとは病気のようなものであって「ひきこもり=弱者」としての位置づけが与えられている。


JR西日本天下り官僚に対して噴火のようなバッシングが向けられるのは彼らが「強者」であると認識されているからだろう。道徳的に許されないことが起きると、「正義」の名の下に「糾弾」が開始される。つまり、相手が「強者」であれば「糾弾」がなされ、相手が「弱者」ならば「説教」がなされる。


「ひきこもり」には「糾弾」ではなく「説教」というのは、ディフェンスする側としては少しは楽だ。まだ対策の立てようがある。しかし、ディフェンスが楽だからと言って、この構図に乗っかってしまうと「ひきこもり=弱者」という構図を知らないうちに受け入れてしまうことになる。


だから「ひきこもりは弱者か?」と問うてみる必要があろう。


「ひきこもりは弱者か?」という問いへの答えは、やはり社会的な位置づけ次第ということになる。ひきこもることで給料がもらえる世界があるなら、ひきこもりは弱者とはみなされない。結局の所、「弱者」といっても「構造的に規定された弱者」なのだ。


もちろん、すべての「弱者」は「構造的に規定」されている。ひきこもりに限ったことではなく、学校に行かないことが普通のことである社会では不登校は問題にはならないし、不登校児童は弱者とはみなされない。身体障害者に関しても同じである。第三世界の問題でも世界の力関係(=構造)によって、アフリカをはじめとした第三世界が弱者となっているだけなのだ。


弱者というものは元来そのようなものだ。構造的に弱者となっているだけであって、ひきこもりが本来的に道徳的に許されないことでも、弱者であるわけでもない。


弱者とは構造的に、そして道徳的に決定される。構造的に「弱い立場に立つ者」と言い換えても良いだろう。弱者とは本来的にそれ以上でも以下でもない。

*1:http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040820#p6

*2:ひきこもり生活を体験すれば「やりたい」などはきっと思わないはずなのだが、知らないからあこがれるという要素があるのだろう。上山さんが引用している主婦も大変な仕事だ。三食昼寝付きの生活を送ることが経済的に可能なのは、夫の収入がある程度高い階層に限られ、専業型の主婦は3割程度である

当事者による知の独占と権威性



「偉い先生の言うことは正しい」「専門家の言うことは正しい」「年長の言うことは正しい」などなど。


これは、私たちが一般的に持ってる情報の「確からしさ」の根拠の一例だ。私たちはすべての情報を理解した上で、自身の行為を決めているわけではない。例えば、医者に行って手術するとしてもほとんどの人は医学の知識を持っていないため、本当に手術すべきなのか? 手術の方法は適切なのか? ということを判断することはできない。しかし、私たちは「医者という専門家が診断を下している」→「その診断は正しい」という判断をする。医者から多少の説明を受けることになるだろうが、その知識量でちゃんと理解できることはまずないし、ほとんどの場合、「この医師なら信用がおけそうだ」というような事で診断を受けるかどうか決めてしまってる事が多い。


つまり、その行為の根拠となっているのは「医者という専門家が言っている」というところにある。要するに根拠は「専門家」という所にある*1


「大学教授の言うことは正しい」という判断も同様の構造をとっている。他には「年長の言うことは正しい」というのもある。同じように発言内容ではなく、「発言者の属性」で内容の「正当性」が決定している。


図に表すと次のようになる。



属性

内容

 

専門家という属性が発言内容の根拠となっている。


これをもう少し細かく見ると、「専門知」と「権威」の問題になる。


「専門知」とはつまり、医学の専門的な知識があることであり、「権威」とは「医者は偉い」というものである。


「年長者の言うことは正しい」というものにも同様の構造がある。「亀の甲より年の功」という言葉にも表れているように、長い間生きてきた経験には実践的な「専門知」があり、そして、年長という「権威」も存在している。


「専門知」と「権威」の備わった発言だから、私たちは発言内容を理解出来なかったとしても、その発言内容を信用することになる。


しかし、このような構造は現在では弱まっていると言えよう。その一つの典型が「医療ミス」による医者の逮捕が続発してることである。以前は医者は絶対の権威性を持っていた。医者の専門知をもってしても患者が助けられなかったのだから、患者が死んでも仕方ないと考えられていたわけだ。しかし、それは違うぞ!と現在では責任追及が可能になっている。これは、医者の「専門知」と「権威性」が弱まってきたことが原因と考えることが出来る。


同じように「学校の先生」、「大学の教授」、「年長者」の「専門知」と「権威性」も弱まってきている。


このような上からの決定が弱まってきている一方で、実は、下からの権威性は強まってきているのではないだろうか?


下からの権威性とは「当事者」による決定である。


「当事者」において、「専門知」に相当するのは「当事者の声」というものだ。つまり、当事者の体験から生まれた「体験知」である*2「専門知」は専門家に独占されている一方で、「体験知」は体験者に独占されている。


一方「権威性」はid:about-h:20050619で書いた(ひきこもりの例で言えば)「5年ひきこもった人より、10年ひきこもった人の方の言葉の方が真実に近いと考えることができる」という考え方だ。つまり、体験したという事実によって「語り」の正当性が根拠づけられるという考え方*3。ここに「弱者ゆえの権威性」なるものが存在している。


表にまとめると以下のようになる。



  強者 弱者
知識 専門知 体験知
審級 強者属性 弱者属性
学問 専門学問 当事者学


さて、先ほどの医療ミスによる逮捕についてにも関係することだが、強者の権威性は強力である一方で、転覆しやすいという性質も持っている。「革命」という言葉で考えると一番把握しやすいが、強者の権威性は「正義」の名の下に転覆することができる。強者の言うことを転覆することには、爽快感さえ伴う。


しかし、弱者による権威性はどうか?


弱者として構築されたものは、弱者からの訴えとして、人々に聞く耳を持ってもらえないということがしばしば存在する。だから、あまり強力ではないと言えよう*4。しかし、一方で、転覆は難しい。なぜなら、転覆しようと思うと弱者を攻撃することになるからだ。弱者への攻撃は爽快感を伴うというものではなく、後味が悪いものであり、決して「正義」だとはみなされない。



  強者 弱者
知識 専門知 体験知
審級 強者属性 弱者属性
学問 専門学問 当事者学
転覆 強者転覆 弱者圧殺


「当事者」といった時にも「専門家」と同じように発言には「知の独占」があり「権威性」が存在している。


このことを踏まえた上で、注意すべきなのは「当事者」というものは隠蔽され続けている性質を持っているのだということだ。やや長くなるので次回に続く。

*1:社会学の言葉でいうなら「専門家システム」(ギデンズ)ということになろう

*2:「当事者に聞けば分かるだろう」という発想はここから来ている。

*3:実際のところは経験の深刻さと語る資格の間に本質的な関係は存在しないのは当然のこと

*4:従って黙殺される場合がしばしば存在する