精神医学について
講談社+α新書の「子供の心がわかる本」シリーズには以下のような帯が付いている
子どもたちはどこか病んでいる。しかし、それを克服する素晴らしさをもっている。
河合隼雄
河合隼雄は子どもたちが「病んでいる」と勝手に決めつける。偉い先生なのは分かるけども大きなお世話じゃないか?特定の誰かが病気ならまだしも、子供全体が病気だなんて……*1
このような言動は河合隼雄だけに限ったものじゃない。理由は精神医学の性質そのものに原因がある。
精神医学は対象を「病気だ」と認定する。「病気」とは正常で健康な状態ではない。だから病気だと認定された者は治療されなければならないのだ。
精神医学はまず対象を病気だと認定する。その行為によって精神医学者が(カウンセリングなり薬剤を使って)治療をすることに「正当性」が与えられることになる。
「社会的ひきこもり」の場合はどうか
「ひきこもり」は状態をさす言葉であって、医学的な診断名ではありません
(磯部潮,2004,『「ひきこもり」がなおるとき』講談社,28.)
「ひきこもり」とは引き込んでいる状態や引き込んでる行為を指す言葉。だから、精神医学という学問の成り立ちからいって「ひきこもり」という概念は扱いづらい。だから、精神科医の書いたひきこもり本には、DSM-IVの診断基準なんかが出てきて、具体的に言うとこういう病名が与えられる〜と細々とした説明がされる。あれをしないと精神科医は治療にあたることができないのだ。
ぼくは「ひきこもり」概念の余命は長くないと思っている。この概念が廃れた後には、「対人不安が強過ぎて家族ぐらいしかしゃべれない」ヒトたちをカテゴライズするために「社会不安障害」(社会恐怖)が普及するのではないだろうか。概念はヒトが支えないと消えてしまう。製薬会社とAPAは「社会不安障害」概念を強く支持している。「ひきこもり」概念を支えるヒトは少なく、その力は弱い。
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「社会不安障害」という枠組みも悪くないと思うけども、やはり「病気」であるということによって治療の正当化が起こるのならば、精神医学の学問上の性質というのは認識しておかなければならないことなんじゃないだろうか。