経験者がひきこもりを語る困難性

「ひきこもり」ということを語る動機は何なんだろうか?
はてなには『「ひきこもり」だった僕から』の著者である上山和樹氏のはてなダイアリーがある。
Freezing Point


これは経験者のはてなダイアリーだ。日記なのだからueyamakzkさんは毎日毎日「ひきこもり」のことを考えているのだろう。しかし、これは危険行為じゃないだろうか?


ゲーテの代表作の一つに『若きウェルテルの悩み (岩波文庫)』というものがある。
親友のいいなずけロッテに対するウェルテルのひたむきな愛とその破局を描いた作品だ。ウェルテルは作品の最後に自殺する。


自殺学ではこの作品からヒントを得る形で「ウェルテル効果」という用語が作られている。

ドイツの詩人・文豪のゲーテは1774年に『若きウェルテルの悩み』を出版、一世を風靡した。その物語を要約すると、若きウェルテルが旅先でロッテという美しい女性に恋をするが彼女にはすでに婚約者がいた。そこでウェルテルは恋をあきらめ、公使の秘書となって遠国に赴任するが因習に反抗したため職を失い、社交会からもはじき出されて、再びロッテの町に戻ってくる。その時、すでに結婚していたロッテは、再びウェルテルをやさしくいたわる。人妻となったロッテの優しい態度は、ウェルテルの孤独感をますますつのらせ、遂に彼は自殺にかりたてられていった。時代との断絶に悩みならぬ恋に苦しむ青年を描いたこの不朽の名作は、当時のドイツ文学に新風を吹き込み、共感したヨーロッパの若い世代に自殺が流行し、多感な青年の間に自殺をロマン化、美化する風潮をかもし出した。
 このように青少年層のアイドル、マスコミをにぎわすタレント、社会的有名人、または衆目を引く奇異な自殺に続く「後追い自殺や」「誘発自殺」を触発したり、引き金となる原因のことを、自殺学では「ウェルテル効果」という。

−−布施豊正,1990『自殺学入門―クロス・カルチュラル的考察』誠信書房: 136

「ウェルテル効果」というのは一言でいうならば「リンク」になるだろう。ウェルテルの「言葉」というものはウェルテルを自殺に導いたものだ。そのウェルテルの言葉を使って読者が自分自身の境遇を考え、語る。このことは必然的に読者を自殺に導いていってしまう。リンクによって読者はウェルテルに乗っ取られてしまって自殺をしてしまうのだ。


ゲーテ自身このような言葉を残している。

ゲーテとの対話 下 (岩波文庫 赤 409-3)

 話題は一転して、『ヴュルテル』に移った。『あれもやはり』とゲーテはいった、『私がペリカンのように、私自身の心臓の血であれを育てた。あの中には、私自身の胸の内からほとばしり出たものがたくさんつまっているし、感情や思想がいっぱい入っている。だからたぶん、それだけでもあんな小さな小説の十冊分ほどの長篇小説にすることもできるだろうな。それはともかく、すでにたびたびいったように、あの本は出版以来たった一回しか読み返していないよ。そしてもう二度と読んだりしないように用心している。あれは、まったく業火そのものだ! 近づくのが気味悪いね私は、あれを産み出した病的な状態を追体験するのが恐ろしいのさ。』
 

−−エッカーマン山下肇訳,1969『ゲーテとの対話』岩波文庫 : 下43

ゲーテは「あれは、まったく業火そのものだ!」と言う。そして「病的な状態を追体験するのが恐ろしい」と理由を説明する。


ひきこもりも同じだ。たとえ当事者(ひきこもり中)から抜けだし、経験者(元ひきこもり)になったとしても、「ひきこもり」について考え、語ることは、かつての自分とリンクすることを意味している。ゲーテ自身が『若きウェルテルの悩み』を「業火」とみなしたように、ひきこもり経験者にとっての「ひきこもり」はひきこもりを追体験する業火だ。このような行為を毎日毎日行うのはやはり危険以外のなにものでもない。


しかし、ひきこもりはひきこもり経験者を離してはくれない。ゲーテは「もう二度と読んだりしないように用心」できたかも知れないが、ひきこもりはひきこもり経験者を呪縛し続けるので、どうしても離れることが出来ない。


さてさてueyamakzkさんの日記が危険だとさんざん書いたわけだが、もちろんこのはてなダイアリーだって危険なことには違いはない。落とし穴があることが分かっていて、そこにわざわざはまりに行ってるのかもしれない。


参考リンク
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040627#p1