脱構築の限界

スピヴァクは70年代にデリダの『グラマトロジーについて』を英訳した。80年代の末になるまでデリダが政治にコミットしようとしない中で、スピヴァクデリダよりも先にポストコロニアル下での抵抗にデリダの方法を実践的に使用していた。


このエントリーで問題にしたいのはスピヴァクが参照するデリダの「脱構築」の限界性である。学史的にはエドワード・サイードによるデリダ批判*1を引用するのが妥当であるかも知れないが、ここではあえて有効性という観点から考えてみたい。


脱構築には方法としての正当性は存在している。しかし、方法に正当性があることと、抵抗の手段として有効であるかということは全く別の問題である。デリダスピヴァクを抵抗の手段として選択することは戦略として有効なのだろうか?


竹村和子は次のように述べる。

この論文[サバルタンは語ることができるか]が射程に入れているのは−−明言はしていないが−−植民地支配からグローバルな搾取への移行という危機的状況にあって、サバルタンの声がいかに復権されうるかということのはずである。

−−竹村和子,2002『愛について−−アイデンティティと欲望の政治学岩波書店 : 279

つまり、ひきこもりがサバルタンとするならば、私たちの社会の中でひきこもりの声が発せられたとしても聞き届けられないということに対して、抵抗を行うこと−−ひきこもりの声をいかに復権するのかということが、スピヴァクをひきこもり文脈で使う意義である。


しかし、この抵抗の手段には致命的な弱さがある気がする。


スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』の第4章であるインド女性の自殺を問題にする。彼女の自殺は周りの者には「恋愛の末の自殺」と受け取られ、彼女の人生はそのように記述されていた。しかしスピヴァクは恋愛の末の自殺ではないという証拠を探し当て反論する。加えてインド独立の武装闘争に参加していた事実と自殺の直前に政治的暗殺の任務を受けていたことを発見する。ここからスピヴァクは「恋愛の末の自殺なのではなく政治的な暗殺の任務の重みに耐えかねて自殺したのではないか」と言う。しかし、スピヴァクの提出する証拠は自殺した彼女が意図して残したものかは結局の所わからない。


つまり、スピヴァクが『サバルタンは語ることができるか』で行ったことというのは、「恋愛の末の自殺ではない」という主張をしたのではなく、「政治的な暗殺の任務の重みに耐えかねた自殺である可能性がある」ということなのだ。つまり、依然として「恋愛の末の自殺」である可能性は残されたままなのである。


東浩紀デリダの方法を次のように述べる。

彼[デリダ]のテクスト読解は、決して概念の新解釈を打ち出すものなのではない。彼の目的はむしろ、ある概念が特定の意味をもってしまう、その瞬間の前に「かも知れない」の疑いをつねに差し入れることにある。

−−東浩紀,1998『存在論的、郵便的−−ジャック・デリダについて』新潮社 : 50

脱構築が「かも知れない」と疑いを差し入れることが目的ならば、脱構築されたものにさらに「しかしそうでないかも知れない」とさらに疑いを差し入れることが可能だ。ある概念が特定の意味をもってしまうその瞬間の前に脱構築は行われるとしても、その行為が有効かどうかは分からない。暗殺の任務の重みに耐えかねた自殺でなのかもしれない、と言っても、あれは恋愛の末の自殺だと主張する人たちには、そんな可能性などはやすやすと抹殺されてしまうのではないか?


ひきこもりは甘えだ、穀潰しだという人たちにデリダスピヴァクの抵抗手段は有効か? 「甘えじゃないかも知れない」と言ったところでおそらく聞いてもらえることはない。残念ながら「疑い」や「可能性」では人を動かすには弱すぎる。


ならば「精神病だから追い込むな」と言った方が有効であろう。


もちろん「あえて」言ってみるのだ。


「ひきこもり」は精神病ではない。精神科医は「精神病ではなく心身症だ」と言うだろうし、当事者からも反発を受けるは容易に想像できる。しかし抵抗の戦略としては精神病という言葉を使った方が有効ではないだろうか。もちろん「精神病」という言葉ではなくもっと適当で効果的な言葉を探す必要はあるが。


正当性ではなく有効性を求めるという立場は現代思想ではなく、政治学や経済学が持っている立場だ。


社会学にも好例がある。1969年フランスのオルレアンで起こった連続女性誘拐事件のうわさについての研究である。そのうわさとは女性がブテッィクの試着室で、薬物により意識不明とさせられ外国の売春宿に連れ去られるというものだった。このうわさがフランスに根強く存在するユダヤ人差別と結びつき、ユダヤ人が犯人であるという根も葉もないことが人々に信じられた。


これに対してそのようなうわさはユダヤ人差別でありナチスドイツと同じではないかという対抗言説を作り出され抵抗が行われた。その結果、誘拐騒動は収まったという。*2言説に対しては言説で対抗するという戦略である。


ひきこもりの当事者がいて、その周りに家族や支援者や経験者がいるとするならば、その外部に語る時の言葉は現代思想の要請するような厳密性を持った言葉では黙殺される。むしろオルレアンの時に行われたように暴力的な対抗言説を作り上げる必要があるのである。



参考リンク
http://d.hatena.ne.jp/about-h/20050107

*1:脱構築の対象とされるヨーロッパの思想・哲学の言説をデリダ脱構築することによって、逆にそれらのテクストの正統性を高めているという批判

*2:エドガール・モラン『オルレアンのうわさ』asin:462201565X