宮台真司「儒教文化圏である日韓の若者の相違と今後の課題」

まず自己紹介から*1

92年の中学生日記で、不登校で布団から出ようとしない子供を先生と親が布団ごと丸めて学校まで持っていったということが美談として語られていたというエピソードが紹介された*2。92年の段階だとこのような強制的な介入が美談であったが、現在ではこのような措置は行われない。対応の仕方がこの10年で大きく変わってきたことがうかがえる。


社会の中でネガティブに語られていたものが時代が進むにつれて「人によって違うのだ」と認識されるようになる*3。これは「成熟社会化」の結果である。つまり、逸脱であったものが「オルタナティブ」なものとして認識されるのだ。


かつての非行少年は反社会的(anti-social)であった*4。しかし、最近は脱社会的(de-social)なものが問題となっている*5


例えば大人の世界から脱してしまったということで見ると、オタク、チーマー*6、テレクラ少女などがあげられる。彼らは大人からは理解不可能な存在として認識されている。


彼らが居るのは20万人以上の都市で匿名性が確保されているような場所。家でも学校でも地域でもない場所を宮台氏は「第四空間」と呼んでいる。この空間に居着く若者が増え、大人とは隔離されるようになった。ただ、大人からは隔離された空間でコミットしている集団内ではコミュニケーションは確保されている*7


韓国では社会のメインストリームへの信頼が高いので第四空間化はあまり起こっていないのではないか*8


流動性の高い社会ではコミュニケーション・タイプが分かれてくる。

  1. 現在の社交的タイプ……解離 場によって人格が変わる うまく生きる
  2. 現在の内向的タイプ……退却 純粋性を求める     まともに生きる

単一の共同体内で生きていれば人格は1つで十分だが、いくつもの集団に属していると各集団に適格な人格が必要となってくる。各集団への最適化が行われると、1人の人間がいくつもの人格を持つ事になる。これを宮台氏は「解離」と表現していた。


一方、このような解離現象をニセモノだと捉える人たちもいる。これらの人たちは解離的なものを避けてより純粋なものを求めることになる*9


例えばコミュニケーションが不得意という訳ではないが、コミュニケーションをする気が起きないという現象。これは解離を避けるがための退却である。


「性的回避」とは性的に退却すること。一言でいうならセックスが無くても問題がないという心性である。高校生の半分がセックスを経験済みなのに、大学生になってつきあって2年にもなるのにセックスをしないカップルがいるらしい。


流動性の高くなった社会では「自由」が得られるが、この「自由」が実はあまり楽しくない。理由はすべてのものが交換可能になるからである。自分の唯一性を「かわいさ」に求めたとしても、かわいい奴はいっぱいる。高学歴に求めたとしても高学歴な人間はたくさんいる。流動性の高い社会での「自由」は属性的(かわいいから・高学歴だから)な自己肯定を行うことができないということ知ることにつながってしまう。この結果、コミュニケーション営為がすべて交換可能になり、実りを生まなくなる。実りが生まれないなら参加しないという選択がとられる。これが「退却」である。


一般的な価値で言えば、「退却」するよりも上手く生きることが要求される。しかし、これが本当に良いことかも分からないし、また社会に馴染むことも良いことなのかも分からない。


このような現象が起こった原因として「郊外化」というものが考えられる。郊外化は2つの段階で捉えることができる

  1. 団地化(50年代後半)
    1. 地域の空洞化(地域でやっていたことを専業主婦にやらす)
    2. 家族の内閉化(問題を家族で抱え込んでしまう)
  2. ニュータウン化(70年代後半)
    1. 家族の空洞化(山田太一の『岸辺のアルバム』で家族内暴力が描かれる)
    2. 第四空間化(第四空間化によってコンビニ化、ファミレス化。家族が市場化した)


80年代に日本では社会を変える大きな出来事が起こっていた。


82年 マンションブーム(知らない人が入ってくる。反対運動が各地で起こる)
    セブンイレブンPOS化(86年までに完了)
    レディスコミックの登場
84年 投稿写真誌の登場(ナンパ→セックス→写真をとる→投稿する)
85年 セブンイレブンの「恵子さんは真夜中に突然いなり寿司が食べたくなりました」というCM*10
    NTT民営化……コードレスフォンの普及
    台湾・韓国製の安価なテレビ→個室化


80年代の半ばからベストテン、タイムショックなど家族全体で見ることを想定したテレビ番組が消えていく。その一方で新しい技術によって個室化が進む。


夜、食べたいものをコンビニに行って買ってきて、一緒にレディスコミックも買ってくる。夜食を食べながらレディスコミックを読んでるとテレクラの広告が大量に目に入ってくる。なんと不思議なことに手元にはコードレスフォンがある。テレクラへ参入する条件は揃った。


80年代の新しい技術によって個室化が進み、第四空間への参入が必然的なものとなった。


韓国にも96年にテレクラが登場した。宮台氏は97年にフィールドワークに出かけるがそこで日本とは違ったテレクラ事情に出会った。日本ではテレクラに来る主婦は夫の悪口を言う。つまり自分の表の生活がどれだけ苦しいかを主張する。しかし、韓国のテレクラに来る主婦は自分の家族はちゃんとしたものだと主張するという。


宮台氏は「家族を保持する能力が主婦にはなくてはならない」という社会的規範は韓国では存在するか?そしてその強さはどうか?という質問をキム・ヒョンス氏に行った。(答えは後ほどキム氏から述べられた)


宮台氏は、日本で主婦がテレクラに走ったのは「家族を保持する能力が主婦にはなくてはならない」という社会的規範が存在かるからだと考える。つまり、そういう社会規範に押しつぶされずに生きるためにはテレクラのような空間が必要であったというわけだ。

  80年代後半に、北海道から沖縄までテレクラを回りつづけて、それが本当によくわかりました。
 彼女たちは、テレクラで、ささやかなカッコつきの「非日常的な冒険」をすることで、なんとか「良き妻」「良き母」であり続け、空洞化した家族に上下(かみしも)をつける。かわいいじゃないですか。
 だからこそ僕は、「『家庭は何をやっているんだ、父親や母親は何をやっているんだ』と噴き上がる頭の悪い道徳主義者こそ、テレクラ立地に賛成すべきだ」と言い続けていたわけです。ありえないはずの道徳的な「良き父」「良き母」を、テレクラのガス抜きが支えているんだからね。

 −−宮台真司,2003『絶望から出発しよう』ウェイツ : 25

80年代にポケベルやマンションブームなど個別には社会問題としてとりあげられることはあっても、総合的に問題にされることはなかった。


宮台氏の講演は「ひきこもり」という問題に焦点を当てず、「ひきこもり」を用意した80年代という時代の解説が中心であった。「ひきこもり」問題を考える人も、ひきこもり当事者も、ひきこもりを抱える親たちも「ひきこもり」のことだけを考えがちだ。しかし宮台氏のいうような社会的背景を見て、視野を広げることも行う必要があるように思った。

*1:最近の彼の活動(アジア主義ギリシア哲学など)や京都で生まれ育ったということなど

*2:この中学生日記は実話に基づいているらしい

*3:例えば人生の生き方も昔は強力なモデルが存在したが、現在では昔では逸脱と捉えられていたような生き方が許容される

*4:校内暴力問題は、学校という制度に反抗するものであったが、学校というものは制度の中に存在しているので依然として社会の中に彼らはいた

*5:厳密に言えば、酒鬼薔薇聖斗のような存在

*6:渋谷のセンター街などにたむろする長い髪を茶色に染め、耳にピアスをしているような人たち

*7:ひきこもりは一人であるので隔離空間であってもコミュニケーションは確保されない。従って宮台氏の言う第四空間にはひきこもりは含まれないと考えられる

*8:水野氏の報告でコンビニでたむろする若者がいないこと、家族との結合が強いことなどがこの傍証として上がるだろう

*9:ひきこもりは解離を嫌い、より純粋なコミュニケーションを求める傾向がある

*10:関西では放映されていない