不登校とひきこもり

この本では15人の不登校経験者に対する質的なインタビュー調査が行われている。

 本書の語り手たちは、その多くが「うまくいっている」人びとであり、第三者に自らの経験を語りうる「安定した」人びとである。その意味では、「不登校によるマイナス」を比較的まぬがれてきた人びとであり、構造的不平等の問題として不登校を捉え返すことを主眼に置く本書にとっては、あまりふさわしい対象ではないと見る向きもあるかもしれない。しかし、「不登校によるマイナス」をもっとも強く感じている人びとは、語りの場に姿を見せないという現実がある。その点は本書の限界と受け止めながら、今回は対象とした一五人の語り手たちの語りのなかから、可能な限り主題にせまってゆきたいと考える。
−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』新曜社 : 106-7


このように貴戸自身も言うようにこの本からこぼれ落ちている「不登校」がいる*1


「ひきこもり」でもこの問題は同じである。ひきこもり当事者で発言をしている人は少なく、また、経験者であっても一部の人間が語りを行っているだけに過ぎない。


不登校」と「ひきこもり」問題にはこの点において相似している。


では、不登校とひきこもりの関係で言えばどうだろうか?


ひきこもりの3〜4割は不登校からのスライド組だと言われている。彼らは不登校になってフリースクールに行ったが馴染めずにひきこもりになったか、そもそもフリースクールに縁がなかったという人たちだ。彼らのことをどう扱うべきなのか?


斎藤環はこのように言っている。

見事に自立し、社会参加を果たした不登校児の「エリート」たちのかげには、焦りを感じつつも社会に踏み出すことのできない、膨大な数のもと不登校児たちがいるような気がします。

−−斎藤環,2004『社会的ひきこもり』PHP研究所 : 37

斎藤環の言う「焦りを感じつつも社会に踏み出すことのできない、膨大な数のもと不登校児」というのは、すなわち「ひきこもり」である。貴戸の今回の調査では不登校の中で、不登校からひきこもりへのスライド組が取りこぼし気味になっている。


この不登校からのスライド組のひきこもりをどう捉えていくか?


この問題はひきこもりの問題であるのはもちろんのこと、不登校の問題でもある。

*1:もちろんこぼれ落ちていようとも、貴戸の試みは十分に評価されるべきものである