金城隆一・永冨奈津恵・田中俊英 座談会



月刊少年育成2004年8月号「現場から見た「ひきこもり」」から、金城隆一氏・永冨奈津恵氏・田中俊英氏の座談会・「「ひきこもり」議論がうっとうしい」について*1

田中俊英
そして時々インターネットを覗いたときなどに思うのは、先に書いた活発な「ひきこもり議論」と僕の日常の仕事の現場はかなり乗離しているのではないか、という素朴な疑問だ。

−−金城隆一永冨奈津恵田中俊英,2004,「座談会『ひきこもり』議論がうっとうしい」「月刊少年育成」2004年8月号 : 10

個別に会うひきこもりの方々と活字で読む「ひきこもり」というのは解離しているという実感は自分にもある。もちろん自分で書いている「ひきこもり」という言葉にも疑問は常にある。以前のブログでもこのことを書いた。

「ひきこもり」という単語で他者を呼称すること、自身を定義づけることに全く納得がいかないという気持ちを抱えながらも、それをあえてやっていかなければならない苦悩がここにあるのである。

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もちろん、ひきこもり議論がうっとうしいというのも理解できる。「ひきこもり」の定義を厳密にやらなければならないとも思っていないし、当人の自称でひきこもり認定を行うというのもなんだか違うような気がする。

金城隆一
僕が「ひきこもり」議論に対して持つ違和感というのは、それぞれ議論する人が持つ「ひきこもり」像と、実際の「ひきこもり」の人たちとの間に、ズレがあるということです。たとえば、いろんな支援団体のスタッフの方と話していて感じることですけど、各々が抱く「ひきこもり」というのが微妙にズレているんですね。「ひきこもり」議論というのは実はお互いがズレたまま行なわれているんではないか、と僕はこの頃思っている。

−−金城隆一永冨奈津恵田中俊英,2004,「座談会『ひきこもり』議論がうっとうしい」「月刊少年育成」2004年8月号 : 12

これも良く感じること。ひきこもりと呼ばれる人たちは(自分も含めて)多様すぎて一言で言い表すことなど不可能だ。


数日前に会ったある支援者は、「ひきこもり」について書こうと思ったが、書けなかったと言っていた。日頃会ってるひきこもりと呼ばれる人たちが多様すぎて、「ひきこもり」という一言で表現することをためらったのだそうだ。この感情は自分の中にも常に存在している。


自分の場合は自力で出てきたわけだし、二神さんが介入の線引きをしている1年を越える期間*2ひきこもっていた。だから、支援団体なんて要らないんじゃないかと思ったりもする。でも、それは自分の場合であって、自分のケースがすべての人に当てはまるわけではないし、支援が必要な人は確実に存在している。


だから、芹沢俊介引きこもるという情熱』という本は批判される必要があると思う。芹沢は「正しい引きこもり方をすればひきこもりは回復する」という主張をし、支援団体や親や精神科医が介入をするからひきこもりは長期化するんだということを彼は言っている。


芹沢がこのような主張をするのは、本人が四十数年前に不登校で、ひきこんでいたという経験をもっているからだろうと推測できる。つまり、彼は自力脱出をした経験から、ひきこもりは自力脱出できるのだという判断を行っている。


しかしこれは2つの点で誤りがある。

  1. 40年も前のひきこもる行為と近年起こっている「ひきこもり」は別の現象であるので同じように論じるべきではない。
  2. 芹沢の体験はあくまでも芹沢の体験であって一般化することは出来ない。


とは言え、自力脱出が可能な人はいる。いや、むしろ数としては自力脱出の方が多いはずだ。そして不適切な支援で長期化した例もある。だから芹沢の言うことは当たってるところがある。


しかし、芹沢説を採用すると、そのことによって支援が必要なひきこもりが放置されることになってしまう。だから、自分は戦略的に芹沢は批判対象とし、戦略的に斎藤環を支持をしている。


いや、というよりもそもそも「ひきこもり」について語ることに「正しさ」や「正解」は無い。


「ひきこもり」という言葉を使うことは、経験者にとっては自分の体験を整理することに繋がる。社会的に「ひきこもり」という言葉を使うことは「ひきこもり」を社会問題として構築し、予防や支援や社会復帰をアピールすることに繋がる。


「ひきこもり」についての語ることというのは、そもそもが戦略的なのだ。

*1:ある人からコピーをいただきました。ありがとうございます。

*2:ニュースタート二神能基は1年以上ひきこもっても改善はみられないとして、1年を基準にして介入の必要性を主張している