クレーム申し立て

id:about-h:20050103でも書いたように社会問題は誰かがクレームを申し立てないと社会問題とならない。声を上げないと誰も気づかず実態として問題があっても見過ごされてしまう。


従って「ひきこもり」の問題もクレーム申し立てが行わなければならない。しかし、クレーム申し立てには「ひきこもりが問題なのだ」と言わなければならない。つまり「ひきこもり」という「名付け」を行わなければならないし、「ひきこもり」という「カテゴリー」が必要になってくる。


ここにジレンマが発生がある。つまり「暴力」に対してクレーム申し立てをしようとすると、逆に「暴力」を受け入れなければならないのだ。皮肉な逆説である。


デリダは純粋暴力は存在しないと言う。つまり何かしらのアクションを起こすことは何かしらの暴力行為を宿命的に併発する。だから結論としては、どの暴力を引き受けることが耐えうるのかということを選択しなければならないことになる。


「ひきこもり」と名付けることやカテゴリーに括ってしまうことは「暴力」ではある。しかし逆にその行為がないと「ひきこもり」を社会問題として社会に訴えかけていくことが出来ない。「ひきこもり」への名付けとカテゴリーの暴力を禁忌するか、実態を放棄するか。


この選択を行わなければならないのである。「ひきこもり」にあまり関係のない人たちはこの選択をする必要はない。しかし「ひきこもり」に対して関係のある人たちはこの選択を迫られるのである。そして当事者や経験者は自身に対しての選択と、自身以外への人たちをどう扱うかというという2つの選択を迫られることになる。


「ひきこもり」という単語で他者を呼称すること、自身を定義づけることに全く納得がいかないという気持ちを抱えながらも、それをあえてやっていかなければならない苦悩がここにあるのである。