サバルタンとは

サバルタン」とはマルクス主義者アントニオ・グラムシが獄中にいるときに使った用語。もともとはマルクスの「プロレタリアート」の代替用語として使っていたようだ。代替する必要性があったのは獄中で「プロレタリアート」と書くと検閲が入るからとも言われている。


マルクスの「ブルジョワジー」が「プロレタリアート」を搾取するという二元的な権力理論に対してグラムシは日常の中の権力作用に焦点を当てる。経済的な関係だけではなく、文化的なもの、言語的なものまでを含めた権力関係を指す言葉として「ヘゲモニー」という用語があるが、このヘゲモニーの中での従属者に相当するのが「サバルタン」。*1


ひきこもりは社会的弱者と考えることができるが、強者に直接的に暴力的に搾取されていくという訳ではない。世界そのものがジワリジワリと自分を否定し、自分のいる場所がないという感じに近いので、マルクスの用語である「プロレタリアート」ではなく、日常の中の権力作用によって弱い立場に立たされる「サバルタン」と呼ぶ方が妥当であろう。


インドを中心としたサバルタンスタディーズではこのグラムシサバルタンの定義が使われる(グハ、チャタジーなど)。しかし社会学現代思想でいわれる「サバルタン」はスピヴァクの定義である場合が多い。


サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)


この本では夫が死ぬと妻も一緒に死ななければならないという「サティー」というインドでの現象について書かれている。この本の結論は「サバルタンは語ることができない」というものだ。しかし、後になって公にされた『サバルタントーク』によってこの本の結論の方向性は変化している。スピヴァクは「Speak」と「Talk」という類型をつくる。

Talk ……ただ言うだけ
Speak ……言ったことが聞いてもらえる

発話というものは一人では出来ない。発話者とそれを聞く受け手の最低2人は確実に必要だ。Talkというのは「助けてくれ!」と叫んでも誰も聞いてくれない状況。Speakはその叫びに誰かが耳を傾けてくれる状況。

サバルタンが語ることができない」ということは、どんなにサバルタンが必死で語ろうとしても、聞き取ってもらえないということです。語ることと聞くことによって発話行為は完成します。これがわたしが言おうとしたことで、その場所には苦悩が刻まれているのです。

−−スピヴァク(吉原ゆかり訳)「サバルタントーク」『現代思想』27巻7号 : 292

「ひきこもり」問題でサバルタンを語るならば、誰が耳を傾けてくれるのかという問題になる。いま現在ひきこもり中で当事者である人間の声に耳を傾ける人はいるのか? 「ひきこもり」を偏見なしに理解している人や、自身が過去にひきこもりだった人間は少しは耳を傾けることが出来るかも知れない。


しかし限界は存在する。なぜならば近い位置に立つものであったとしても当事者ではない。ひきこもりの援助者ならば何かしらのイデオロギーを「ひきこもり」に背負わせるかも知れないし、ひきこもり経験者ならば自身のひきこもり体験に大きく引き寄せた「ひきこもり」のイメージを描くだろう。このようなフィルターを通してひきこもりの当事者は理解され「ひきこもり」というものが語られるのである。


はたしてサバルタンの声は聞き届けられているのだろうか?

*1:現代思想史の中では少なくともそう捉えられる。サバルタンという用語の成り立ちについてはhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~ikawag/savaltan.htmも参照のこと