サバルタンは自身をサバルタンと認識しているか?


ひきこもりの当事者は自身が「ひきこもり」なのかよく分からない可能性がある。これは自分がそうだったから言うのだけども、当事者であった頃は「ひきこもり」について知識があまり無く*1、自分を語る言葉を持っていなかった。


自分を語る言葉だけではない。なぜ今自分がひきこもりと呼ばれる状態にいるのかよく分からなかった。これはもちろん脱出してかなり年数が経って、アカデミズムの言葉と社会学というツールを得た今でもよく分からない。時々、ひきこもった原因を考える。何がいけなかったのだろうか?何をすれば良かったのだろうか?と。しかし答えはでないままだ。


自分の状況を一般化するのはまずい。しかし、大なり小なりどの当事者も似たような状態なんじゃないだろうか。当事者は自身を語る言葉も、自身の状態を他者の理解できる形で語ることもできない。自身が従属者の立場にあり、搾取されていることを明確に認識しているならば、声を発することもできよう。しかし何を声にしたらいいのかも分からず、その方法も分からない。であるならば声が出ることはない。


スピヴァクは「語りえぬもの」の中に「聞きえぬもの」の問題を発見した。しかし「ひきこもり」の場合、未だにに問題となっているのは「語りえぬもの」の方なのではないか。当事者が声を上げることの困難性。「声にならない声」とでも言えるものが「ひきこもり」に存在している。


しかしそれを聞くことは不可能である。なぜならば当事者でないものが「聞こえた」と思っても、それは自分の文脈の上に立って聞いたものにすぎない。あえて言うならば、勝手に構築したものでしかない。たとえ過去にひきこもりだった者であっても、自分のひきこもり体験に近づけて理解してしまうという危険性がある。「声にならない声」は原理的には聞き取ることは出来ない。


これは言語以外のコミュニケーションでも同じである。つまり、手振りや顔の表情や身体に現れる汗や震えなど*2を読み取ったと思ってもそれは自分の認識のフィルターを通ったメッセージでしかない。


「ひきこもり」には、Speakできない困難性(=他者に聞いてもらえない困難性)とともにTalkさえも出来ない(=声を発する事が出来ない) という二重の困難性がつきまとうのである。


あえて性急に結論を出すならば、自分自身の立つ位置で「ひきこもり」と向かい合うしかない。それが現代思想が「ポリティクス」と呼ぶような不均衡な政治性を持っていたとしても、自身の価値観を押しつけるような「暴力」であったとしてもである。


参考リンク
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050104#p1
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20041220#p1
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20041211
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20041130#p1

*1:当時はネットが一般的じゃなかったので、ネットが発展した今は違うのかもしれない

*2:ノンバーバル・コミュニケーション[non-verbal communication]