大学生と少女たち
溝上慎一は閉塞感を描き出した。大学生には消せない不安感があるから楽しそうにはしゃいで見せているんではないか。このような大学生像を出した溝上の議論にはリアリティーがある。
一見楽しそうに見える女子高生も同じだろう。彼女たちは「今」を意味する「若さ」に固執し、遊ぼうとするのも不安感があるからではないだろうか。
だからきっとこんなことを言うのだ。
そんな猶予期間をしっかり自覚している子もいる。高二のM香は栃木県の高校の一年生。彼女にとってほ、高校生ではなく、十代までがその時間だという。
「やっぱ、十代は遊ぶ時代じゃないですか。二〇歳過ぎたら働く、でも、それまでは遊ぶよって……。たぶん、周りの友だちもそうだと思うんだけど、高校卒業しても全員学校も行かないし、仕事もしないと思う。十代最後の二年間だから、そこまでは遊ぶって
決めてる。若いときは若いなりにやって、二〇歳過ぎたら成人だから働くっていう……」−−高崎真規子,2004『少女たちはなぜHを急ぐのか』日本放送出版協会: 35
年をとると遊べないから今遊ぶと彼女たちは言う。しかし実際は逆だ。将来が分からないから今遊んで将来が決まっていない不安を忘却する。将来の自分はそれなりにちゃんとしてるだろうという希望的観測を込めて「成人になったら働く」と言う。*1
「少女たちはなぜHを急ぐのか」という答えもこの辺りにある気がする。つまり、将来の見えない閉塞感の中、自分が今持っている「有り物」で日々を楽しく暮らし、不安を忘却しようとするなら、「H」という手段を使うことは妥当な選択だ。
だからHを急いでいるのではなく、少女たちは不安を忘却するために必死になっていて、その手段としてHが選択される。Hそのものが急がれているという訳じゃない。
とすると、この本が取り上げた「性」の問題というのは、若者がバカなのでもなく、若者にコミュニケーション能力が欠如しているわけでもなく、みんながみんな将来に対して明確なイメージを描けないことが原因となっているのだ。
女子高生も大学生も現れ方は違っても同じ問題を抱えている。
では「ひきこもり」はどうか?
根本的な違いはおそらく存在しない。しかし一方で大きな違いもある。
というのは、大学生はコンパやダブルスクールに熱を上げることが可能だし、女子高生は遊ぶこと熱を上げることが可能だ。しかし、ひきこもりには一体何があるのか?
ひきこもることに熱を上げることは出来ない*2。女子高生は遊びによって不安を忘却できたし、大学生はコンパで不安を忘却することができた。しかし「ひきこもり」はひきこもることによって不安を忘却することはできない。むしろ、どんどんと不安は膨張していく。
不安を持っているという同じような社会的背景を持ちながら、ひきこもりが深刻であるのは、この「不安の忘却装置」がないということなのではないだろうか。