「当事者」とは誰か?
貴戸理恵のいう「当事者」は元・不登校が含まれている。貴戸理恵本人も経験者なので当然彼女も含まれてる。
このはてなダイアリーでは元ひきこもり(経験者)は当事者でないことになってる*1。自分は普通に外に出られる。外に出られるようになったのに自分はひきこもりだというのも違和感がある。「ひきこもり」はやはり「ひきこもる」のだから「ひきこもり」だ。だから、自分では自分のことを当事者だとは思えない*2。
「当事者とは誰か?」という問いはこの本の中でも取り上げられている。貴戸理恵の言葉ではなく、不登校経験者Qさんへのインタビューの中で出てくる。
ぼくも〈当事者〉じゃないんですよ。なぜなら、言葉を持ってしまったから。Cとかの言葉を知って、自分のことを語れるようになってしまったから。(フリースクールの説明会で)いちばんいい話するのは、学校に行かなくなった子どもたちなんですよ。喋ってって言われても、みんな言葉になんないの。がたがたしちゃって。でもそれがいちばんいいの。それがいちばん伝わるの。言葉じゃない部分を持ってる人が〈当事者〉だと思う。シューレの説明会とかでは、初めての子の方がいい話をする。
このようなインタビューがあったのだから「経験者」を「当事者」と呼ぶべきか否かという葛藤は恐らくあっただろう。
しかし、この本では「経験者」も「当事者」であるとしている。その理由は、どうやら彼女の主張(価値観)が関係しているようである。
この本の結論は以下のようになっている。
「選択」の先にあるのは不登校からの「一抜け」としての「不登校エリート」ではなく、いつまでもつづく、終わることのない不登校でなければならないだろう。そうした「終わらない不登校」へと回路づけられたとき、〈「居場所」関係者〉の「選択」の物語は、「大人になったらどうするつもり」という「常識」的な人びとの強迫に抗して、真に〈当事者〉のための物語となるのではないだろうか。
少々わかりにくい文章だが、要するに「不登校体験」を通じて「生きる」ということを示すこと=不登校から抜けても不登校として生きていくということを彼女は提示している。「逸脱した生」であるとか「学校への抵抗としての生」だとかではなく、一つのオルタナティブな生き方としての「不登校」ということを彼女は主張している。
だから、この本の題名は『不登校は終わらない』となっているのだ。