ひきこもり問題との距離
この本で語られいることを「ひきこもり」問題に写して考えてみると、何カ所か違和感がでてくるところがある。
例えば以下の箇所。
ここには〈当事者〉の視点が不在である。〈当事者〉とは、「不登校によるマイナス」をわが身にこうむりながら不登校を自分の経験として肯定する必要に迫られるひとつの立場であり、既存の物語のなかではみずからにとっての不登校を語りえない。
貴戸理恵は不登校の当事者は「不登校を自分の経験として肯定する必要に迫られる」という。
ここで言われる「必要に迫られる」というのは「学校に行かないという行為」を肯定しないと自己肯定ができないという意味であろう。しかし、不登校児童には「学校に行かないという行為」を肯定しているばかりではない。「ひきこもり」についても同じである。ひきこもりの場合は「ひきこもり否定派」がもっと多くなるはずだ*1。
「ひきこもりをやって良かったです」という声を聞いたことがない。楽しいひきこもりライフを送ったりして楽しかったと言う人もいるのかもしれないが、多くの「ひきこもり」にとってひきこもることは良いことだとは捉えられていない。「良かった点もないわけではない」だとか「仕方なかった」だとか、id:SUISEI:20050130のように「後悔はしていない」など。「無駄ではなかった」とは言う人もいるだろう。
不登校には「明るい不登校」に代表される立場がある。「居場所系」とよばれるフリースペース、フリースクールがとる立場で「不登校でもいいじゃないか」という不登校を肯定する立場だ。学校に行けないのは病気だという考え方に反抗する形で構築され、子供が不登校を「選択」したのだと説明される。「選択としての不登校」とも言う。
「ひきこもり」に転じてみると、そもそも「ひきこもり」には「明るいひきこもり」という立場は無い。「明るい不登校」はまだしも「明るいひきこもり」ってのはすごく気持ち悪い。部屋で一人で明るくヘラヘラするってことになのか……。かなり違和感がある。
ひきこもりから脱出した後はお花畑が待ってる訳じゃなくてツライ体験が待ってる。でも、ひきこもり中よりかはいくらかマシだ。だから、脱出者が自ら進んで再ひきこもりということをしない。ひきこもることも、一度脱出したのに再ひきこもりすることも選択ではなく、仕方なく行われることだ。
しばしば「バイト先では自分が出せない」「シューレ大学では自分が出せる」といった一般社会との対比において自分たちの居場所を定義する会話がなされていた。こうした断絶をいかに生きるかは、「社会に出る」にあたって不登校を経験した人びとが直面する、もっとも身近でむずかしい問題のうちのひとつである。
不登校経験者(東京シューレ)は「シューレ大学では自分が出せる」という。少なくともこの言葉を言った人には「居場所」が存在していた。どうやら、ここに「不登校」と「ひきこもり」の決定的な差異があるようだ。
東京シューレのようなフリースクールではスクール側も仲間も「不登校は悪い事じゃない」と言って、不登校の子供たちのことを肯定してくれる。普通じゃない状態だと認識してもそれを肯定してくれるコミュニティーがある。
しかし、ひきこもりというのは自室に引き籠もることだから、仲間はいないし、コミュニケーションもない。自分の状態を肯定してくれる者もいない。
同じ逸脱でもこの点が大きく違う。
フリースクール系の不登校児童には、そこで新しい生活とコミュニケーションと社会生活が待っている。しかし、ひきこもりにはそれがない。
昨日のid:about-h:20050131で書いたように、彼女はこの本で「一つのオルタナティブな生き方としての『不登校』」を語っている。しかし、自室で引き籠もる「ひきこもり」が「一つのオルタナティブな生き方」とは意味づけられない*2。
ここに「不登校」と「ひきこもり」の断絶がある。