「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇

この事件については、斎藤環氏も『中央公論』2004年12月号で取り上げていた。斎藤氏の文章の題は「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」というもの。まさにこの一文がこの事件を言い表しているように思われる。

この事件は言葉の本来の意味で象徴的な事件であり、現実的なレヴュルでは、ひきこもり状態から構造的にもたらされた悲劇でもある。ひきこもり当事者の高年齢化、両親の高齢化と衰弱、経済的困窮、そして周囲の無理解。これらの条件が重なれば、あとほんの一押しで(就労のプレッシャーなど)、同じ悲劇が繰り返されるだろう。

−−斎藤環,2004「時評2004 「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」,『中央公論』2004.12 :44

斎藤氏の言うようにこの事件は一つの象徴的な表れであって特殊例ではない。この事件の後ろには数万のひきこもりを抱える世帯が似たような状況で、辛うじてこのような悲劇にならないように踏みとどまっている。


なぜこのようなことが起こるのか?ということを問うてみると2つの問題があることに気づく。一つは経済的な問題。経済的に苦しくなる=親がひきこもり当事者を養うことができなくなれば「一家心中」するしかない。


だから、経済的な問題はひきこもり問題では重要な要素だ。しかし、この問題は経済的な問題として処理しきれない。


というのは、行政側が問題だと感じて経済援助を行おうとしてもかなり難しいからだ。


「ひきこもり」は社会的には良くないものとして認識されている。だから、家族は自分の家族にひきこもりがいることを隠して抱え込んでしまうケースが多い。家族が外部に見せないということは、行政側からも見えないと言うことだ。だから、単純に経済的な問題として経済的援助をすればいいんだということにはならない。


根本的にはこのような悲劇の原因は、家族が「ひきこもり」を抱え込んでしまうという問題にある。もちろんこれは社会で「ひきこもり」がマイナスイメージで認識されていることが関係している。この問題に関しては斎藤環氏に代表される「啓蒙活動」に望みをつなげることしかできない。ひきこもりとは関係のない人たちが、「ひきこもり」という社会問題があることを認識して、怠け者でも犯罪者予備軍でもないということ認識してくれれば、いくらかは抱え込みが解消できる。とはいえ、これはなかなか難しいのが現状。


行政的には、相談所などへの簡単に相談できる工夫が必要になってくる。ただ、いくつか問題がある。ひとつは行政的な相談所にはひきこもりに詳しい人間があまりいないということ。これは深刻で「本人をつれてきてもらわないとどうしようもない」と言う相談員もざらにいる*1。もちろん本人をつれてこなければどうしようもないのは正しいが、そんなことを言っていたら問題を放置するだけになるという知識と経験が行政には欠けている。


もう一つは、親が相談しに行くということは、親が自分の子供がひきこもりであるということを認めることであって、これは親にとっては辛いことであるということだ。自分の子育ての失敗を認めるかのように思ってしまっている親もいる。このことが家族での抱え込みを引き起こしている。


家族としても自分たちの都合の悪いことは隠そうとするし、当事者もひきこんでいるので周りから見えない。


東大阪の事件も水戸と土浦の事件も「家族で問題を抱えてしまう」ということが事件の原因になっている。この「抱え込み」がひきこもりを長期化させ問題の隠蔽をする一番要因になってるが、家族による「抱え込み」は「ひきこもり」だけに限ったことではない。むしろ「家族」というものが根本的に抱えている問題であろうと思われる。


例えばどういうことか?


今の社会には「生命保険」というものがある。働き手(多くの場合は夫)が死んだときに、残された者の生活のために保険をかけておくというものが生命保険だが、これが登場するのは近代になってからの話だ。近代以前は死亡のリスクはコミュニティーが背負っていた。夫が死んでも残された者はコミュニティーの中に受け入れ先があって生きていくことができた*2


日本で言うと明治になって現れた生命保険だが、これは働き手の死亡リスクを家族の会計から捻出することによって担保するというシステムだ。ラジオ体操の起源であるスウェーデン体操は保険会社が日本に持ち込んだものである。目的はもちろん、スウェーデン体操をして顧客に健康に生きてもらって保険会社ができるだけ金を払わないようにするためだ。


このように近代になると、働き手の死亡リスクも各家族の会計が担保するようになった。


死亡リスクと同様に近代では家族があらゆるトラブルの解決者とみなされるようになった。以前も引用したが牟田和恵はこのように言っている。

近代とは、それまで人を社会に編入する役割を果たしてきた地域共同体や職能共同体が背後に退き、「家族」が特権化する時代なのである。

−−牟田和恵,1996『戦略としての家族−−近代日本の国民国家形成と女性』新曜社 : 155

ひきこもりという社会化されていない存在が家庭にいると「家族」がその解決者にならなければならない。しかし、何のノウハウもない家族にひきこもりを解決する能力はない。だから「抱え込む」ことになる。


家族によるひきこもりの抱え込みとその象徴として現れる親殺しという現象が表しているのは(1)近代では家族がトラブルの解決者としてみなされるということ(2)水戸・土浦の事件に見られるように家族はトラブルを解決する能力を持っていないこと(3)そして、東大阪の事件に見られるように、もし家族で解決できなければ家族ごと自滅(心中)していかなくてはならないということ。この3つのこと表しているように思われる。

*1:こういう人はまだマシかもしれない

*2:もちろん主要産業が農業であったことも関係している