クィア・スタディーズ
「クィア・スタディーズ」と呼ばれる研究分野がある。「クィア(queer)」とは「変態」や「おかま」という意味で、ネガティブな意味(差別語)である。「クィア」と名指される当事者自身がこの言葉を自分を名指す言葉としてあえて使おう*1と試みたことからクィア・スタディーズは始まっている。
つまり、クィア・スタディーズはネガティブな言葉を自ら引き受けてネガティブな意味合いの転倒を行おうということから始まったわけだ。しかし、現在はアイデンティティそのものも瓦解させようという方向へ向かっている。
本質をそなえ一貫性を椎持したものをアイデンティティとして理解するなら,「本質なきアイデンティティ」という言い方は,語義矛盾である.しかし,クィア理論家たちは,こうした矛盾をはらんだ暖昧さや不確定性といったものを,限界としてではなくむしろ肯完的にとらえている.そして,そうした暖昧さや不確定性を,「非買性愛」あるいは「反異性愛」に代表されるような,「反正常性」の運動の空間構築に結びつけるのである.すなわち,これまで場所を与えられなかったものに場や空間を作り出すようなダイナミズムがクィアであるといえる.
現在のクィア・スタディーズはアイデンティティの瓦解に到達している*2。
アイデンティティの瓦解は常に正しい事だとは言い切れない。なぜなら、人はアイデンティティによって縛られることもあれば、新しいアイデンティティを持つことによって逆に解放されることもあるからだ。比喩をするならば「諸刃の剣」という表現になるだろうか。
ひきこもり・不登校問題でクィア・スタディーズの論点を振り返るのは有効だと思う。しかし、ここでは少し論点がぶれてしまうので、当初のクィアを巡る動きに特化して書きたいと思う。
アーリーン・スタインは次のように言っている*3
集合的なアイデンティティが,組織化に先立って存在している人びとのあいだの差異を反映すると考えるだけではなく,われわれは,運動それ自体がアイデンティティを再形成するような過程をつぶさに見る必要があるのだ.
−−A. Stein, "Sisters and Queers: The Decentering of Lesbian Feminism", Socialist Review 22, p. 36.
ゲイやレズビアンといったカテゴリーは差別にも使われるが、逆にアイデンティティの確立としても使われる。
これは「ひきこもり」でも同じだ。「ひきこもり」というカテゴリーによって排除される*4こともあるが、「ひきこもり」が自分の自己定義になることもある*5。
「クィア」という差別語であってもこの事情は変わらない。そもそもは差別語に対して切り返す意味で「クィア」という言葉は運動の中で使用されていたが、これもやはり自己定義に寄与してしまう。だからこそ、クィア・スタディーズはアイデンティティの瓦解にまで及ぶことになったわけだ。