貴戸理恵の試み

この間いは不登校だけに関わるのではなく、「社会的に劣位のカテゴリーへと自己同一化を迫られた人びとが、選んだわけではない状況をいかに引き受け、存在証明を行ないうるか」という、もっと一般的な水準の問いに重なっている。劣位の自己といういわば「病」が、克服・乗り越え・立ち直り・完治といった完全な解決の可能性を閉ざされているとき、私たちは、自己肯定的な存在証明の言葉をどのように紡いでゆけるのだろうか。

−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』新曜社 : 266

 「選んだのではない、そうせざるをえなかった」。(当事者)が証言するのは、「劣位」からの「一抜け」が不可能である現実のきびしさだ。不登校の「肯定」は、あくまでも、「劣位の自己の肯定」としてなされる必要があるのであり、そこで有効なのは「不登校からの一抜け」ではなく、「不登校に開きなおる」物語なのではないだろうか。

−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』新曜社 : 271

貴戸理恵のインタビュー「本書の語り手たちは、その多くが「うまくいっている」人びとであり、第三者に自らの経験を語りうる「安定した」人びと」(106頁)に実施されている。彼らは、不登校を通過する課程で「不登校」というもので自身のアイデンティティにしている。例えば「明るい不登校」の物語に乗っかることによって自己肯定した人にとって、「不登校」という言葉は自身のアイデンティティになるといったように。


ひきこもりと不登校比べてみると同じ逸脱であるにも関わらず大きく違うことに気づく。

  • 不登校……学校に行かない状態
  • ひきこもり……社会との交わりをしない状態


不登校とは学校に行かないと言うことであって、例えば、フリースクール系の不登校フリースクールに集団帰属をするので社会的関係がフリースクールの中でできる。だから、フリースクールで生まれた人間関係によって「学校に行かなくても自分は肯定されるんだ」ということを知って、「不登校」という言葉がアイデンティティになる。


しかし、ひきこもりは不登校のように学校から出て別の集団に所属すると言うことではなく、社会との交わりをしない状態だ。そして多くの場合ひきこもり状態を肯定することは本人も家族も周りの人たちもできない。だから、ひきこもりがアイデンティティとなったとしても、それはプラスのものではなく、マイナスのアイデンティティでしかない。


マイナスにアイデンティティしか存在しないならば、ひきこもりはその忌々しき状態から抜け出ることに意味を見出す。ひきこもりとして生きるのではなく「ひきこもりからの一抜けの物語」が要請されるのだ。


貴戸理恵は「『不登校からの一抜け』ではなく、『不登校に開きなおる』物語」(271頁)と言っている。「不登校に開きなおる」というのはクィアスタディーズ的な戦略だが、ひきこもりでこれが可能だとは思えない。


ひきこもりの3〜4割は不登校からのスライド組だと言われている。つまり、ひきこもりの物語の4割程度は不登校の物語でもある。貴戸理恵の物語では語られないもの。クィア的戦略では回収的できないもの。このことを問うものが「ひきこもり」という問題系であろう。