個人的なことは政治的なことである


「頑張れ」という励まし言葉がありますが、この表現が嫌いです。

小学校だったかの教科書に似たようなことが書いてあったような記憶が頭の隅にある*1。そんな大昔のことが頭の隅に残ってるくらいだから、わりと気になってる言葉ではあるけども、変わりに何を言えば良いんだと問われると難しい。


「頑張るな」と言ってみても「頑張れ」を否定しただけで、余計に「頑張ること」に捕らわれている気もする。「応援」したい気持ちがあってもその気持ちを伝えるのは難しいし、応援するというのは「相手にこうして欲しい」という願望を伝えるわけだから、結局の所、プレッシャーを与えること以外の何ものでもない。


声援を受ける側がプレッシャーに耐えうるだけの余裕があればOKなんだろうが、余裕がない時には相手を追いつめるだけにしかならない。


こんな時に可能なコミュニケーションはいくつも無いけども、一番良さそうなのは、同じ体験をした仲間同士でする「わかる、わかる」的なコミュニケーションだろう。


それにも関連することで「代弁の資格」という問題がある。


ひきこもりが「不可視かつ無声」な存在ならば、誰が代弁するのか?という問題だ。ひきこもりの知識が無い人は当然ながら代弁することはできない。だいたいは「甘えだ!」という説教系の言葉に陥る。


ひきこもり経験者は自分がかつてひきこもりであったから、ひきこもり当事者のことを代弁するには過去の自分を思い出せば良い。ひきこもり経験者というのは周囲から見えないことも、かつての自分の経験から引き出してくることが可能だ。


ひきこもり経験者はひきこもりだったということで代弁する資格があると見なされる。しかし「かつてそうだった」という語る位置(=属性的なもの)によって代弁する資格をえるのではなく、当事者にしか理解できないことをかつての自分から類推できることによって、ひきこもり経験者は当事者を代弁する資格を得ることができるのだと思う。つまり属性的なものではなく、過去の自身の体験から情報を引き出してこれる存在としての語る資格である。


当事者性ということで見るとここのブログはあまりアピールしないし、社会学の言葉で書くように心がけている*2。理由は、アイデンティティ社会学の方にあるということもあるが、自分の中からひきこもりを語るとやりきれない気分になるからだ。


ひきこもりの重要文献とされる塩倉裕氏の『引きこもり (朝日文庫)』を未だに読んでない。読んでなと言うよりも読みたくないのだ。前著の『引きこもる若者たち (朝日文庫)』はなんとか読んだものの、読んでいると忘れていたはずの過去の体験がフラッシュバックのように蘇ってくる。覚悟を決めれば読めるんだろうけども、怖くて『引きこもり (朝日文庫)』は読まずに置いてある。


自分にとって社会学の言葉でひきこもりを語ることは「お守り」のようなもの。「お守り」と表現してくれたのは所属大学の先輩なのだけども、この「お守り」という言葉ですべてが表現できているような気がする。これさえ守っていれば、ひきこもりに取り込まれることはない。


だからこそ社会学という言葉にこだわり続け、経験者として語ることを放棄し続けようと心がける。経験者属性は語る動機で十分だ。


フェミニズムの分野ではよく「パフォーマティビティ」という言葉が使われる。また、上野千鶴子は運動だけでなくフェミニズム理論の営為もフェミニズムの実践であると言う。理論的営為がフェミニズムの実践であり、かつ、フェミニズム的価値観に則って理論構築をせよということだ。つまり、客観性をまとった透明な存在として語るのではなく、社会の中に生きる一個人として語れという。


ラディカル・フェミニズムには「個人的なことは政治的なことである」*3というスローガンがある。運動や政治というものは公的領域にだけあるものではなく、私たちの身近な生活の中に存在し、女性差別や不平等という問題も個人の立場から語れる(いや、むしろ語るべきだ)ということだ。しかし「個人的なことは政治的なことである」であったとしても、なぜわざわざそんなことをしなければならないのか?


この言葉の最も不思議は思う点は、個人的なことは必ずしも政治的でないこと*4や公私領域の混同*5ではなく、個人的なことを政治的に語れるということそのものだ。差別されて虐げられているならば、そんな属性をまとって語りなどできるのか? そんな語り方をして辛くないのか? もし辛くないならば、そんなものはそもそもスティグマでは無いのではないか?


id:ueyamakzkさんははてなダイアリーでギリギリの状態で死にそうになりながら語っている。「個人的なことは政治的なこと」として語る「痛み」や「絶望」のようなものが彼のはてなダイアリーからは感じられる。しかし同じようなものをフェミニズムから感じとれたことは少ない。むしろ、フェミニズムは「社会的なことを個人的なこと」として語っている気がしてならない。天下国家のことを個人的なものとして語る鈍感さのようなものが感じられるときがある。


「個人的なことは政治的なこと」として語るには痛みが伴う。痛みがないのは「政治的なことを個人的なこと」として語っているだけに過ぎないからだ。


自分は「個人的なことは政治的なこと」として語ることによって痛みや絶望を受けたくはない。痛いのは嫌だ。絶望もご免こうむりたい。


だから「個人的なことは政治的なこと」しては語らない。「政治的なことを政治的なこと」として語ろうと思う。だから社会的なことを科学的に扱う社会学の言葉で語るという選択した。


id:ueyamakzkさんが「内在的」という言葉を使われていたが、その言葉を使うならば、内在的に語るために戦略的に外在的な社会学という言語を使うのだということになるだろうか。内在的に語るために必要となる外在性が社会学という言語だ。


以上をid:ueyamakzkさんへの回答としてエントリしようと思う。

*1:武田鉄矢の文章だったような気もするけど、あんまり明確な覚えがない…

*2:「ひきこもりについて考えるところ」であって「ひきこもり性をアピールするところ」じゃない

*3:ケイト・ミレット『性の植民地』

*4:例えばモテないことは社会問題ではない。個人的にモテないことを政治的に語るのは滑稽だ

*5:リベラリズムによる批判