貴戸理恵さんと会って話してきました
貴戸理恵さんと会って話してきました。6時間くらいしゃべっていたような気がします。『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』の「著者近影」が各所で話題になっています(^_^;)が、この写真から受けるイメージとは違った感じの人でした。全く個人的な感想なんですけども。
感想はこれくらいにしてそろそろ本題に。
まずは「当事者」の問題から。
「ひきこもり」では脱出した人間は自分を「当事者」と自己記述するよりも「経験者」と自己記述する方がしっくりくる場合が多い。不登校では登校年齢を過ぎても「当事者」と自己記述しても違和感少ない(ひきこもり比)。ただもちろん違和感が無い訳ではなく、『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』のQさんのケースレポートにあるように「語れるようになった自分はもう当事者ではない」と言う気持ちも共有している。つまりどっちかだと決めることは出来ない。
どっちかだと決めることは出来ないのは「ひきこもり」の場合も同じだろう。しかし、どちらの比率が多いかというと、やはり「ひきこもり」の方が自己を「経験者」として記述する割合*1が多い印象を持った。理由を考えてみると3つほど思い当たるものがある。
C.H.クーリーに「鏡に映った自己」という概念がある。クーリーは人間の自我は明確で揺るぎないものではなく、他者との相互関係の中で生まれていくものだと考えた。つまり、他者が「鏡」のような役割を果たして、それによって自我形成が行われるということだ*2。
クーリーに従えば、鏡の役割を果たしてくれる他者がいなければ、自我形成は困難になることが予想される。
ひきこもりの場合、ひきこもっているときには家族以外の他者はいない*3ので、自我形成が難しい。したがって、アイデンティティはひきこもり中に形成される可能性はあまり無いのではないか?
一方、不登校はフリースクールなどに通うなどした場合、そこには集団があり、自我形成が可能であるため、「不登校」というアイデンティティが持ちやすいのではないだろうか。
事後的には、不登校もひきこもりもアイデンティファイは可能であろう。「ああ、自分は不登校だったんだな」とか「ああ、自分はひきこもりだったんだな」などの過去の自分への自己定義だ。
自分自身「ひきこもり」という言葉をひきこもり中に知らなかったので、自分自身をひきこもり中に「ひきこもり」だと記述したことはない。だから、アイデンティティがあったとしてもそれは事後的なものに限定される。
はてなではid:SUISEIさんもそのようなことを言っていた。でも、id:hikigaeruさんはひきこもり中に斎藤環の『社会的ひきこもり』を読んだと書いていた。彼の場合はどうなんだろう?
いやでいやでたまらないんだけど、自分では捨て去れないような。信じられないくらいいとおしいんだけど、捨てたくてたまらないような。
この「信じられないくらいいとおしい」という部分に個人的には引っかかっていたので、聞いてみたところ、不登校に否定と肯定が入り交じっているものの、やはりこの部分を取ってしまうと違和感があるようだった。
自分の場合、ひきこもりを「いとおしい」と感じたことがない。他のひきこもり経験者の人はどうなんだろうか?
書くことはもっとあるんだけども、個人情報だとかある団体の都合だとかで書けることがやはり少ない。
とても残念。。。
今日書いたのは書けることの半分くらい。
貴戸さんと常野さんの共著『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』についてのエントリを近々書くつもりなので、そのときに書こうかと思います。
あと、個人的に疑問に思ってたことがあったので、いくつか質問しました。(ありがとうございます貴戸さん)
『不登校が終わらない』の副題は「選択」の物語から〈当事者〉の語りへとなってけども、選択が「物語」で当事者の方は「語り」になっているのはなぜ?(本の締めくくりが当事者の「物語」になっていから)
「選択」は「病気」と同じような規模で流通するものとなっているが、〈当事者〉の語りは個人の行うものなので「語り」とした、とのことでした。
あと、1冊目の『不登校は終わらない』という題は2冊目につけたかった(つけるべきだった)とのこと。編集の関係で題が決まったそうだが、内容を読んでみると確かにそうだなと納得できます。
ちなみに、2冊目を持ってらっしゃる方はパラパラマンガの179頁辺りを見てみてください。貴戸さん本人オススメのコマだそうです。カワイイですね〜(^o^)。このパラパラマンガはこの本の内容を象徴してるものなので、要チェックです。