唯一性を求めること

唯一性を獲得する、もしくは唯一性へ近づくという傾向は近代や現代に特にみられることではないと考えられる。例えば「宗教」ということを考えてみると、強弱はあっても唯一性への接近はどの宗教にも認められる。


キリスト教カトリックプロテスタントを比べてみると、両者に「唯一性の希求」という要素を認めることができる。しかし、その強弱には差異がある。


カトリックは教会に集まって発現する共同性を重視する一方で、プロテスタントは聖書を通して信者と神との関係を重視する。このことがプロテスタントで唯一性が希求されやすくなることにつながっている。


カトリックプロテスタントの自殺率を比べてみると、プロテスタントが有意に多い。この結果を見るとプロテスタントでは自殺についての戒律が弱いのではないかと解釈してしまうが、実際にはプロテスタントの方がより厳しく、自殺が厳しく糾弾される。教義で厳しく禁止されているにもかかわらず、プロテスタントの自殺率は高い。


原因は聖書を通しての神との一対一の関係にある。カトリックでは共同性や世俗的な人間関係のコミュニケーションがあり、そのことがガス抜きの役割を果たす*1。一方、プロテスタントでは宗教とのつきあい方を思念的(理念的)なものにして、唯一性(神)への接近を希求する。


この教義上の差異が自殺率の差異を生み出している。


この比較から分かることは3つ。


1.他者とのコミュニケーションが重要である

理念的な神との会話ではなく他者とのコミュニケーションが重要*2であるということ。ひきこもりで言えば、部屋に閉じこもってリアルな他者と会話せずに、仮想した他者が自分を責めたり、バカにしたりということを考えがちであるが、これがあまり良い効果をもたらさない。


つまり、リアルに存在しない理念的存在と会話すること*3は悪いわけではないが、物事を悪いように考えてしまうときには、仮想された他者はいくらでも悪いように構築できてしまう。


そのような他者によって評価された自己像はマイナスに偏るか、プラスに偏る。


例えば、ひきこもりは自己信頼が低く(〜できないという意識が高い)一方で、万能感を持っている(自己評価が高い)。このように偏った認識(極大値のような認識)を持ってしまうのは、具体的な他者を持たずに、理念的な他者とのコミュニケーションを持ってしまうからである。


2.共同性を持つこと

プライベートな集団(カトリックでいうと教会)に積極的に集まることが重要であるということ。やはり集団では、コミュニケーションが確保される。


3.思念的(理念的)な害

「唯一性」というものはその言葉から考えてみてもリアルには存在しないものだ。例えば、世界で一番頭が良い人、世界で一番美しい人というのは存在しているかのように思えるが、実際には存在しない。あくまでも思考の中にだけ存在するものに過ぎない。


つまり、唯一性というのはリアルにあるものではなく、具象を捨て去り、思念的に煮詰めていって、出来た「理念」ということになる。


つまり、唯一性を意識したり認識するためには、まずは思念的に煮詰めていく「思考」が必要となるのだ。

*1:典型的には罪が世俗的な金で免罪される贖宥状(免罪符)

*2:ここで言う重要とは煮詰まらないために〜という意味で

*3:例えば思索活動など