「意味から強度へ」その1

今回は宮台真司の「意味から強度へ」の言説について。id:SUIESEIさんのエントリを読みながら、やはりこのことについて書いておかなければと思いエントリ。


現在の宮台真司は「アジア主義」を標榜しているが、90年代後半の宮台真司は「意味から強度へ」というスローガンを掲げていた。

僕は「意味と強度」というフランス現代哲学のニーチェに由来する対概念をよく使うんですが、「楽しい」というのは「強度がある」ということです。「無意味だ」というのは、「意味がない」ということです。ちなみに「強度」とはアンタンシテ(インテンシティ)の訳で、濃密さとか密度とも訳せます。言い換えると、「意味がない。でも、強度はある」と、「強度はある。でも、意味がない」という対立です。その立場の違いが生と死を分けるらしい。あるいは、現に死ななくても、つらいか、つらくないかを分けるらしい。

−−宮台真司藤井誠二,1999『美しい少年の理由なき自殺』


「意味」を求めるとツライというのは確かに正解だ。


例えば、中学で「クラスでトップ」というものをアイデンティティに生きている人がいるとして、その人が高校へ進んだときに依然としてトップでいられるとは限らない。高校でトップになれなければ「クラスでトップ」というアイデンティティは崩壊する。諦めずにそのアイデンティティにしがみつくようなことがあればツライ生になるだろう。


同じように、町内で一番歌が上手いので「自分は歌が上手い」ということをアイデンティティとして持ってる人が、町内から出てプロデビューに挑戦したとする。その人が「歌が上手い」というアイデンティティを持ち続けられるかはわからない。諦めずにそのアイデンティティにしがみつくようなことがあればツライ生になるだろう。


このように「意味」を使って、アイデンティティを形成することを続けるといつかは限界が来る。自分より能力のある人間にぶつかって自分の限界を知ったときに、アイデンティティを失い、ツラさを感じるようになる。だから「意味」を求めるとツライ*1


この指摘は説得的である。


90年代後半の宮台は「意味」を求めるとツライから、「強度」に移行しろとスローガンを立てていた。宮台の言う強度とは「楽しいな」という感情であったり、「癒される」という心地良さ、と言い換えてもよいだろう。


やや言葉が氾濫してきたので言い換えを行おうと思う。


アイデンティティとは自身を支えるものである。よって、それは自身を肯定するもの=「肯定感」と言えるだろう。「意味」とは「クラスでトップ」であったり、「歌が上手い」と言うようなもの。つまり、自身のスペックに関するものであり、言語的に説明がつくものである。一方、「楽しい」や「癒される」という「強度」は言語的に言い表すことが本質的には出来ない。


従って「意味」とは言語的な肯定感、「強度」とは非言語的な肯定感と言い換えられる。


宮台が述べていた「現代社会では言語的な肯定感を喪失して生きづらい」という分析は妥当であると思う。しかし「だから非言語的な肯定感へシフトしなければならない」という点が疑わしいように思う。


分析からの理論的な飛躍があるのではないだろうか。


なぜなら、そのような移行は出来ない「はず」だからだ。

*1:近代は流動性が高く移動も激しい。前近代では町内で競ってきたものが、全国レベルで競わざるをえなくなる。自分よりも高いスペックを持つ者に出会う機会も増大し、挫折もよりしやすくなっている