挨拶
コミュニケーション能力については、『挨拶』が出来さえすればればいい。
「挨拶」というものは他者と異なる存在であるということを認めることであると聞いたことがある*1。
他者と同じ存在であれば何もしなくても一体化できる。他者と同じならば理解する努力することなく完全に相互理解することができるからだ。しかし、人間は他者とは別の存在なので、完全に分かり合うことができない。
そこで、「挨拶」をというものが他者と異なる存在であるということを思い出す契機になる。「挨拶」をして「相手は自分とは違う存在なんだ」と思い出し、そして「相手を認識する」のだ。そして、ただ認識をするだけではなくて「そこにいて良いんだ」という「承認」を相手に与えることもできる。
「挨拶」するということは、少なくとも相手をいきなり刺殺したりはしないということをアピールできるし、かつ、相手の存在が目に入っているということをアピールできる。
これは他者の存在の肯定だ。
他者を異なる存在であるということを認めることというのは、他者と完全に分かり合える可能性をあきらめる行為であると言える。つまり、相手とコミュニケーションするまでは、自分まったく同じ存在で、同じことを考え、同じことを言う存在である可能性は捨てきれない*2。でも、コミュニケーションを始めた瞬間に、相手は自分とは異なる存在であることに気づく。
つまり、「挨拶」はその「開始」の合図なのだ。「挨拶」という境目から他者との完全相互理解の可能性は破棄され、コミュニケーションが生まれる。そして、その破棄は他者との理解のためにおこなわれる。
相互理解のための完全相互理解の破棄である。
id:ueyamakzkさんも「「コミュニケーションができなければ!」とノルマ的に考えすぎて、かえって何もできなくなっている当事者」という表現を使っておられるが、id:ueyamakzkさんのいうように、当事者はあまりにも相手のとの完全相互理解を望みすぎてしまう傾向があるように思われる。
完全相互理解をあきらめる「契機」として「挨拶」を使う。「全部理解されなきゃコミュニケーションはとらない」。そういう完全相互理解の幻想を打ち破るために「挨拶」は存在している。
コミュニケーションの「内容」より、まずは「形式」から。挨拶は「形式」であり、含まれる情報(=内容)はほとんどない*3。第一歩はこの「形式」からだ。
「形式」ができてはじめて「内容」が作り出せる。