Kさんへ

コメントありがとうございます。
まだ、引っかかっている点が残っているのでコメントさせていただきます。

そして、著者が当事者経験があることは、書評においても記入しており、その上で「門外漢」と書いています。

記述するということとラベリングするということは違うというこ事はさておき、当事者経験がある人間が「門外漢」になってしまう理由が分かりません。


おそらく「研究のための研究」を貴戸さんがしているからだと言われるのでしょう。しかし、不登校というものを引き受けて生きている経験者たちの声を集め、不登校が一言では語れないんだと言う声を集めることが「研究のための研究」になるという根拠がさらに分かりません。


不登校児童を救えなければ地に足のついた研究ではない」と断じるのはKさんの価値判断なのでしょうが、id:palagaさんが言われていたようにそんなに研究というものは狭いものではないと思います。むしろ、自分はこちらの方を強調したいのですが、不登校というのは当事者にとっては一生つきまとうような経験であることを忘れていただきたくない。


親やフリースクールの方々など当事者の周囲におられる人たちは学齢期が過ぎれば不登校は終わりだと思われるのかもしれませんが、当事者にとってはそうではありません。自分の場合は不登校になり、その後ひきこもりに突入して、今もそしてこれからもその代償を引き受けて生きていかねばならないのです。ですから、不登校は自分にとっては終わらないことですし、そしてひきこもりについても終わりはありません。

「終わらない不登校」というオリジナリティのある表現があるにはあります。今目の前にいる子どもを救うとはとても考えられない、荒唐無稽な提案に過ぎないと思います。

Kさんにとっての不登校は、学齢期の子供に限定されているようですが、当事者にとっての不登校は学齢期を過ぎればそれで万事解決と言うものではないのです。ですから、学齢期の子供のためには有効に機能しなくても、貴戸さんの仕事は不登校経験者のための「救い」(Kさんの言われる)となることがあると思います。

「ごく限られた事例を下に書かれている」ことの問題のように考えます。

貴戸さん自身の体験が書き連ねてあるならば、個別具体的な「貴戸理恵不登校経験」になると思いますが、彼女は第一版では15例のケースレポートを載せていますし、修論の段階では17例のケースレポートを載せていたと聞いています。実際に修士論文で登場している以上にいろいろな不登校経験者たちと話をしてきたのですから、彼女が会った人たちが「ごく限られた事例」であると言われる根拠が分かりません。


彼女の聞き取りの中には、不登校後の人生がハッピーエンドとは(色々な意味で)言い難い人たちが登場しています。また、居場所系のメッカである東京シューレ出身の「明るい不登校」も登場しますし、かつて「明るい不登校」だったが、今はそうではないという人も登場しています。また、「明るい」東京シューレの集会では「選択したんだ」と公言しながらも、「選択肢と呼べるほどの道はない」という声や「「選択した」っほんとかよって思う」という声を拾うことに成功しています。


「ごく限られた事例」とKさんはおっしゃられますが、貴戸さんが集められた声の他にどういう声が想定されるのでしょうか? Kさんの中でおそらく具体的な何かが想定されているのでこのように書かれていると思いますので。


ちなみに前エントリーの注釈でも書きましたが、このブログで貴戸さんの本と不登校からひきこもりに移行することについて以前にエントリしました。ご存じかと思いますが、ひきこもりの半分くらいは不登校になってひきこもることになった人たちです。これは居場所関係者たちが隠蔽してきた「明るい不登校になれなかった不登校」や「ひきこもり」に関してです。貴戸さんの本でも触れられてなかった部分なので補足の意味でエントリしていました。


不登校でのこの問題について常野雄次郎さんがとても良い文章を書かれているので、そちらを参照してください。
「(元)登校拒否系」 登校拒否解放の(不)可能性 前編

しかし、それぞれの独創性のある不登校に対して、個別具体的に熟知しているとは(必ずしも)言えないはずです。

これはボランティアも同じなのではないでしょうか?

「当事者であれば最もよくわかる」というのは、ある意味事実であり・ある意味事実でありません。

貴戸さんの本の目的は当事者の語りを集めること。そしてもう少し言うならば、(1)不登校は病気(2)不登校は選択という2つの大きな物語ではない見方を不登校の経験者たちは持っているということ。これを掘り起こすことだったのだと思います。


ですので、不登校経験者に「不登校現象を語れ」というものを要求したのではなく、彼らの不登校体験とその語の人生について語ってもらい、貴戸さんはそれを集めた。「明るい不登校」だけじゃない、「選択としての不登校」だけじゃないと言ってるのは、貴戸さん本人だけでなく、インタビューを受けた経験者たちなのではなかったのでしょうか?



結論のある・無しに関して。私の見解は引用下に書いてありますが、どうやらabout-hさんと私の価値観の違いのようですね。

経験者にとって不登校に終わりはないということは、私たちの価値観の違いではなく、経験者自身が感じていることなのだと思います。ですので結論がないことが貴戸さんの結論であると思います。


一言で言い表せるような結論がなければダメだというのは学校的な価値観のように思います。学校では答えのある問題ばかり教えられるために、問いには答えがあると思いこみがちですが、人生に答えがないように、不登校経験者の人生にも、不登校という体験にも答えはない。そのような「声」を集めた貴戸さんの試みに答えがあるなら、それは逆におかしいように思います。