「意味から強度へ」その2

前回のエントリの続き


宮台は『これが答えだ!』で次のように述べている。

 結論から言えば、意味がなくても−−成功物語や貢献物語の主人公にならなくても−−、強度−−世界を濃密に体感すること−−さえあれば人間は生きていけます。というよりも、人間はそのように生きることが伝統的にはノーマルです。ニーチェは、意味が見つからないから良き生が送れないのでなく、良き生を送れないから意味にすがるのだと喝破しました。しかしニーチェの本を読み、あるいは「意味から強度へ」といった言葉を聞いて、無意味な生を癒される読者は、十分に意味的な存在であり、反ニーチェ的です。ここに「意味から強度へ」と、ただ意味的に述べるだけでは清まない問題の困難さがあるわけです。

−−宮台真司,1998『これが答えだ!』飛鳥新社 : 160

ここで宮台が言っていることは2つ*1

  1. 原初的な社会では強度によって生きるのがノーマル
  2. 原初的な社会ではあり得ない「意味ではなく強度に意味を認めて選ぶ」ことが必要だ


ここから「意味から強度へ」というスローガンが生まれることになる。


では、「意味ではなく強度に意味を認めて選ぶ」ことの根拠は何だったのだろうか? 実際の所、宮台真司がこの根拠を説得的に語ったことは見たことがない。「意味による肯定感が得られなくなったから強度によって得るのだ」というものであったり、「原初的には強度によって肯定感を得るのがノーマル」*2というのは語られるが、意味を求めて意味を得られなかった者が強度をその代替として使うことが可能であるという根拠は示されたことがない


根拠ではないかと推測できるモノは色々なところに散見される。


例えば、『絶望から出発しよう』では宮台は援交少女を(1)ギャル系と(2)AC系に分類して次のように言う。

ギャル系はハタ迷惑じゃないんです。…(中略)…援交で金を稼いで街で「まったり」できるわけですから、トータルでいえば抑圧に打ちひしがれていることはない。むしろハッピーなんですね。
(中略)
ところが他方にAC系の子たちがいて、この子たちは、「誰からも認められたことがないので性的コミュニケーションを通じて承認されたい」とか、「親や彼氏や気に食わない教師に当てつけたい」とか、あるいは「良い子じゃないことを証明するために自分を落としめたい」といった、いろんな自意識上の理由で、援助交際に関わってくるわけですよ。
(中略)
 その意味で、AC系は、さきにオウム信者のような素朴な「意味追求系」がハタ迷惑なのとまったく同じような意味で、ハタ迷惑な毒ガスをまき散らす可能性があると思っているわけです。実際、ギャル系にとっては援交は大した 「意味」をもたないけど、AC系にとっては援交が大きな「意味」をもつんですね。

宮台真司,2003『絶望から出発しよう』ウェイツ : 40-1

宮台真司とは90年代半ばに、保守論者たちの援交批判に対して反論を行うことで有名になった。しかし、その宮台も「意味」を求める援交に対して批判をしている。


ここには「強度」に繋がる援交は「肯定」、「意味」に繋がる援交は「否定」という宮台の立場性が見られる。


また『これが答えだ!』のQ86で宮台は自らがテレクラにハマった理由を述べているが、テレクラ通いをした理由を「観念的マルクス主義者となった自分(意味)」→「自身にリアリティを得る(強度)」ためと彼は説明している。



当時の僕は、世界をまともに享受できていないという劣等感に駆られ、どう生きたらいいのかわからなくなっていました。知らない世界を生きていた人たちの体験を収集し、そのリアリティを拾い集めて貼り合わせれば、僕の希薄なリアリティが補完できるんじゃないかと思いました
−−宮台真司,1998『これが答えだ!』飛鳥新社 : 201


また、マルクス主義者をやめた理由を宮台はこのように説明している。



敏感になれると思ってマルクス主義に接近したら、感受性が鈍くなって女にフラれた!
−−宮台真司,1998『これが答えだ!』飛鳥新社 : 203


ここでは、マルクス主義が「意味」に対応し、感受性が「強度」に対応している。


援交の例では「ハタ迷惑」が根拠となり、テレクラの例では自身への「劣等感」が根拠となり、マルクス主義の例では「モテないこと」が根拠になっている。


これらの引用箇所から分かることは2つ。

  1. 「意味」<<<「強度」という構図が徹底的に維持されている
  2. にもかかわらず、根拠はその都度変わる

よって「意味の代わりに強度を使う」という根拠は宮台自身の価値観から来ているのではないかと類推される。

*1:引用部分+本文要約

*2:人類学的にはこの主張は変だ。文明人から特異に見られる文化も実はよく観察すれば意味があり、合理的な理由があるんだと言うのが人類学の主張であったはずであり、原初社会では意味は不要だというのは人類学からの反論が予測できる