ひきこもりと家族

ひきこもりと家族は密接に関連している。個人的には、ひきこもりという現象は家族の欠損によって生まれるのではなく、近代家族の宿命として生んでしまうのだと思ってる。(今のところ論証不可)


我が子がひきこもりになった場合、親は助けてやらなければと思う。もちろん、当初は「外に出ろ」や「働け」という説教系になって子供コミュニケーションが成立しない。家族のそういう行為の後ろには、「我が子を教育をしなければ」という家族としての「ソフト面での義務」が存在している。ソフト面での規則があるから、家族は説教を行う。無関心なら介入は行われない。


「家族役割」の面はどうか。社会参加をしないひきこもり*1は誰かが扶養しなければ、餓死*2する。だから家族が扶養をする。これはハード面での義務だ。つまり「家族役割」に相当する。


つまり、ソフトでもハードでも家族はひきこもり支援をすることになる。ソフトとハードの乖離が近代家族が崩壊する契機であると山田や他の家族社会学者は考えるが、それは逆に言うとソフトとハードが一致しているならば、近代家族らしい家族が体現できている言える。


ならば、ひきこもりを抱える家庭というのは近代的家族であり、抱え込みという現象もいかにも「近代家族らしい行為」と言えよう。つまり、家族機能の欠損として抱え込んでいるわけではない。むしろ、家族機能が存在するから、ひきこもりの抱え込みは起こるのだ。ひきこもりの抱え込みはダメ家族に起こってるのではなく、〈正常な〉近代家族に起こってるのである。

*1:働かない、家族以外とコミュニケーションをとらない

*2:上山和樹