ニートという言葉に危機感を覚える


個人的にはあまり危機感のようなものは無い。むしろありがたいという気持ちがある。「ひきこもり」というものに居場所が感じてしまう人たちは総じて元気をなくしていってしまうので、そういう人たちを吸収してくれれば、「ひきこもり」という言葉に足をすくわれる人は減るはず。ニートという言葉もありがたいじゃないか、と歓迎しているところがある。

ニートは働けないと言っても、中には、働けるのに働いてない「怠け者」がいるんじゃないか?

昨日そういう言葉をある方からいただいた。たぶん間違ってない。


ひきこもりに同様のことが言われる。でもニートの方が糾弾される確率は高い。原因は言わずもがな「働かない奴は怠け者だ」という考え方から来ている*1


朝日新聞2004年6月7日朝刊に香山リカが「きまじめなニート」という寄稿をしている。

 もちろん、中には「お気楽なニート」もいるだろう。そういう人は、意外に要領よくアルバイトをしては旅行を楽しむなど、なかなか活気ある生活を送っている。問題は、まじめすぎるために、「私らしい仕事とは?」と思いつめて身動きがとれなくなっている「きまじめなニート」たちだ。

「私らしさ」にこだわっているニートも確かにいる。でも、より深刻なのは対人恐怖・社会恐怖を持っているニートであって、人が怖くて働きたくても働けない人たちだ。そしてそういう人たちが数的には一番多く、そしてその実態は「ひきこもり」か「ひきこもりに近い状態である人」だ。


香山の「まじめなニート」という言説は、彼女の今までの仕事の延長としてニートを取り込む戦略だろうが、同時にニートへの批判を回避させる機能も持っている。「ちゃらけてる」のではなく「まじめ」なのだという対抗言説だ。


しかし弱い。


ニートは「働かない」のではない。「働けない」のだ。」という言説(玄田有史など)の方が対抗言説としては強いだろう。(理解されるか別にして)


対抗言説の必要性の問題はどうだろう?


対抗言説は当事者よりも家族や支援団体の方が必要としているのではないだろうか。おそらく、これは機会の問題として。


対抗言説を口にしなければならない機会を多く持つのは、当事者よりも当事者の周りにいる理解者の方である気がする。


ふと思っただけで証拠も何もないが、機会があれば色々な人に聞いてみようと思う。

*1:ひきこもりは「病気」として認識されている所があるので、批判の勢いが弱くなる