当事者の機能とは?

真実とは何か?


リアルとは何か?


この世の中に真実と呼べるものはなく、ただ、膨大な解釈が存在するのみである。


この世界も実際に存在しているものかもわからないし、デカルトが疑った*1ように、私たちは悪魔にだまされているのかもしれない。真実でないものを真実だと誰かに思いこまされているのかもしれない。


デカルトは方法的懐疑の帰結として「我思うに我在り」という手に入れ、すべてを証明する特異点を手に入れた。しかし、そのような特異点は存在しない*2


この世の中に真実と呼べるものはなく、ただ、膨大な解釈が存在するのみである。そして、解釈と解釈の戦いがあり、勝利したものが真実とみなされる。


真実とは解釈の戦いの勝利者でしかない。


マックス・ウェーバーは『理解社会学のカテゴリー』で次のような引用文をしている。

シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない

−−マックス・ウェーバー,『理解社会学のカテゴリー』岩波文庫,14

イノセンス』で引用されたことでも有名な言葉だ。現象を理解するのは当事者の特権ではない。当事者にはわからないこともあるし、当事者以外の人間にも現象理解は可能だ。


逆に当事者も怪しいという指摘もある。

本人が自分自身の状態について語っている告白は、疑わしくはないまでも、たいていどこか不十分なところがある。本人は、自分自身とその心的傾向の性質についてあまりにも誤親しやすい。たとえば興奮の絶頂にあるときでも、みずからは冷静に行動しているつもりでいる。最後に、その告白が十分に客観的でないことはさておいても、それらの観察はあまりに少数の事実に向けられているため、そこから正確な結論を引きだすことがむずかしい。

−−エミール・デュルケム,『自殺論』中公文庫,162


当事者の発話が当事者が言っているから正しいと即断することは誤りだ。当事者だからといって状況を整理して語れるわけでもないし、明確に事象を認識して語れるというわけではない。そして、当事者だから現象の原因を知っているというわけでもない。*3

本人がそうと思い込んでいる動機とか、精神分析でいう抑圧−−言ってみれば、本人が認めていない動機−−とか、そういうものが働いて、行為者自身の眼から自分の行為の目標の真実の連関を隠してしまうことがよくあるもので、主観的には正直な証言でも、相対的な価値しかないことがある。

マックス・ウェーバーの言うように、当事者(本人)の言うことは本来は相対的な価値しか持たないもののはずだ。


では、当事者とはいったい何なのか?
これは「機能」の面からの理解が不可欠だろう。


つまり「当事者は社会の「真実」を構成する機能を持っている」ということだ。


どういうことか?


一言で言うなら、当事者の語っている内容は「正しい」という判断である。つまり、「当事者の言うことは正しい」という判断から、「当事者」の言ったことが「真実」となるのだ。本来は相対的な価値しか持たない「当事者」による語りが「真実」となる。「当事者」というラベルによって、語られた内容は「真実」になる。内容の「正しさ」は「当事者」という「ラベル」によって根拠づけられる。


「当事者」というラベルが貼られた瞬間に「解釈」が「真実」へと昇格する。


当事者の機能とは「真実をつくること」にある。

*1:省察

*2:カントが『純粋理性批判』で行った論駁など参照

*3:当事者でもひきこもりが日本に大量に存在する理由はもちろん、自身のひきこもり原因に的確な説明が与えられるという訳ではない。これは引きこもりに限らず様々なものに当てはまる。