貴戸本騒動 クリップ
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なんだかよく分からないが、東京シューレを全否定するか全肯定するかの闘争になっている気がする。運動にまつわることだからそうなるという宿命はあるんだろうけど、貴戸本が東京シューレ批判をしていたのか、ということと、東京シューレによる貴戸本批判が適切な対処であったかということを考えて欲しいなと。東京シューレによる貴戸批判は不当であるというのが一貫して言いたいこと。
100回読めとあるところから紹介いただいた文章。100回読んではいないが、熟読した。非常に興味深い。特に、親の一言で語ることのできない気持ちが書かれているところ。これからもこの話題についてエントリして欲しいと思った。
「この騒動で利する者」というフレーズを読んで、きっとそういう人はいないんだろうなと思った。今回の騒動で良い思いをした人なんて多分一人もいない。
(ちょっとなんだか誤解を招きそうなので、エントリを移動しました)
◆ちょっと気になっている対立
つまり、不登校児の拒否反応は、学校教育に対してというよりも学校を含んだところの社会のあり方そのものへの拒否反応と考えるべきだろう。
だからこそ、不登校の問題は大人になっても「終わらない」わけだ。確かに大人になるといろいろと立場は変わるかもしれない。が、闘うべき相手は実のところ何も変わっていない。子供の頃は「学校」というわかりやすい標的があっただけにむしろ闘いやすかったかもしれない……。しかし、大人になるとある程度の自由を得られる代わりに、標的を見失ってしまい何をどう闘ったらいいのか逆にわからなくなってしまう、なんてこともあるかもしれない。
−−ちょっと気になっている対立
このエントリは大事なことが指摘されてる。非常に良いエントリだと思う。
不登校の闘う相手は本当は学校じゃない。ひきこもりの場合は闘う相手がとても漠然としてしまう。就労段階でのひきこもりではまず学校が標的になることはなく、労働市場で自分は不適応だという反応を示してしまう。また、不登校からのスライド組であっても、不登校であったという認識が忘却されることが起こるので、学校が闘う相手にはなりづらい傾向がある。
◆「不登校、選んだわけじゃないんだぜ!」再読
「選択」物語は、ここだけの話(笑)学校に行っている人たちに対する隠れ蓑でっせ。
だって生まれたばかりの不登校児肯定の弱い勢力が「学校がこんなダメな場所だから行けなくなるんだ」「学校変われ!つぶれろ!」とか言い出したらカルト扱いされて潰されますよ。(まぁ、でもこれが子どもの本音なんだけど)
「学校に行きたい人は行けばいい」「でも私は行かない道を選ぶ。お互い尊重しましょ」って言う戦略が無ければ、不登校もここまで社会や知識人・文化人に理解されてなかったかもしれない。
http://fuyafuya.at.webry.info/200504/article_3.html
「ここだけの話」を引用して良かったのか分からないけど、重要だと思ったのでお許しください〜
選択の物語がどこから生まれてきたのかはよく分からないけど、馴染めない人がいた中で、色々な人を楽にしてきたのは事実。
そういえば、学校なんて行くんじゃなかったと言いだした自分を思い出した。ひきこもった時に大学の籍は残しておくべきか?ということで、ちょっと前にエントリに書いてる。
学校なんかに行ったから引きこもったんだ、行かなければ今よりマシな人生があったはずだといまだに思っていると言うことは、選択の物語を選べなかった後悔なのかなぁ。
◆私達になれない
「東京シューレの見解」って、誰の見解よ?
http://d.hatena.ne.jp/Ohgyoku/20050417/1113749030
その通り。誰の見解なのでしょうか?
これはとても重要な話。関係者と言えどもいろんなことを思っているはずなのだ。
◆「(元)登校拒否系」コメント欄から
# . 『貴戸氏は暗い不登校当事者ではないですよね。
過去は当事者で「明るい不登校物語」に違和感を覚えたかもしれないが、現在は暗い不登校当事者どころか、不登校当事者ですらなく、茶髪などの現代的ファッションに身を固めた明るい体制側エリートとしか言いようがないと思います。』
茶髪だと同情してもらえないらしい。茶髪だとダメーってのは「校則」みたいだ。
◆nopikoメモ。
本として出版されたことは既に政治的なこと(あるいは利権)だからなぁ・・。
http://d.hatena.ne.jp/nopiko/20050414
ごもっとも。出版は政治的であり、出版後しばらく立って起こった貴戸潰しも政治的であって、今回の見解文の公開も政治的であって、ブログたちの言論活動も政治的。政治的だと批判することが政治的行為なのですよね。一番やっかいなのは、政治的行為だと自覚せずに政治的行為を行うことなのかね、やっぱり。
◆世間を説得するとき
不登校: 「行けないんじゃない、行かないのだ」
ひきこもり: 「働かないんじゃない、働けないのだ」
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050418#p5
いつもながら非常に鋭い指摘。
詰まるところは不登校とひきこもりの性質の違いなのだろうか。
フリースクールに通う不登校は、不登校の先に共同体とコミュニケーションが用意されてる。だから、「行かないこと」が解決になりうる。でも、ひきこもりの先には共同体もコミュニケーションも無く、社会性が失われていく。「ひきこもり続けること」が解決にならない。
この辺りはきっちり整理しといた方がよさそうだ(また後日)。不登校業界−ひきこもり業界が連携が取れない(しばしば対立したりもする)ことの原因も整理すれば分かるだろうし。
追記:
上山さんの引用部にある「行かない」と下の部分ある「行かない」のは違うと書いておいた方がいいような気がしたので、追記。上山さんの「行かない」は世間を説得するときのもの。下の部分は実態として「行かない」こと。実態として学校に行かないことが不登校の解決策になることがあると思う。ひきこもりに同じように適応できるかというとどうなんだろう?と思う。
貴戸は本当にシューレを批判していたのか?
なんだか書かないといけないみたいなので、貴戸本への再エントリをしたいと思う。
まぁ、やっぱりというか、貴戸本が本当に東京シューレを批判していたのかな?という疑問に原点に戻らざるを得ないように思う。東京シューレが貴戸を批判している事実をもって、貴戸が東京シューレを批判していたと予断が働いている気がする。
貴戸の本に登場する「不登校」は当事者にとっては当たり前のことだと言ってよい。これは2ちゃんねるの書き込みでも言及されていた。
正直言うと、当事者のひとりとしてなんら新しい発見ではない。気の会う仲間内では、自分の知る限り十数年前からずっと繰り返し語られてきたことだ。フリ−スク−ルや親の会のなかでもとりわけ仲のよい家族や友達とだけ、酒でも飲んだときにこっそりと語られてきたことにすぎない。
貴戸本は「本音」の部分を語っていて、不登校の本に特有の嘘臭さが無かった。
実際に当事者や親や支援者の思ってる不登校と運動でアピールされる不登校は違う。運動でアピールされる「無臭ニンニク」(常野雄次郎の言葉)のような不登校イメージをメディアや文化人はベタに信用したわけだけども、実際は臭いプンプンのニンニクだし、人には絶対言えないようなこともいっぱいある*1。そういうことを書いたのが貴戸本であったと思う。
そういう貴戸本が東京シューレに運動的に批判されることにやはり疑問を持たざるを得ない。不登校になってひきこもりになって、臭いプンプンのニンニクになった人間としては、貴戸本が「本音」を言っただけで批判されていることに納得がいかない。「臭いプンプンでごめんなさい」「フリースクールにも行けなくてごめんなさい」「ひきこもっちゃてごめんなさい」と言うしかない。
明るい不登校の発言によって、隠蔽された不登校がいるように、東京シューレなどの活動によってひきこもりの存在が隠蔽されたのは事実である。彼らが臭いプンプンのニンニクに接してきて、不登校が無臭ではないということを認識して、子どもたちを力の限り支援してきたのは知ってるし、それを批判しようなど考えてもいない。しかし、東京シューレの政治的運動が*2バッドエンドを向かえた不登校を隠蔽してしまったのも事実である*3。
「東京シューレもひきこもりのことを考えてるぞー」と雑誌を紹介してくれた人もいた*4が、「ひきこもり当事者には様々な人がいる」と言いながら、その雑誌には高岡健や芹沢俊介が登場しているのはなぜなのだろうか? 彼らが語るひきこもりとは、ハッピーエンドが待ってる不登校のサクセスストーリーと同じようなもので、言うならば「無臭ひきこもり」だ。不登校のバッドエンドとしてひきこもりが存在したように、ひきこもりのバッドエンドとしてさらに過酷な状況がある。東京シューレがひきこもりのことを考えてるのはもちろん事実だけども、またいつぞやの隠蔽が繰り返されてしまっている。
このブログで見解文に登場する被害を受けて傷ついた当事者たちを批判するかのようなエントリをしたのも事実。しかし、彼らが貴戸本を潰す政治的運動に荷担するなら、「あなた達が東京シューレの活動に協力することで、また隠蔽される人たちがいるんですけど」と批判するのは間違っていることなのだろうか? 彼らは調査においての被害者だけども、彼らの振る舞いは政治的には明らかに加害者だ。
以前、このブログで「いつまでもひきこもりは続けてはいけない」ということを書いたことがあった。これはひきこもるのがダメということではなくて、親が死んだり、金がなくなったり、本当にどうしようもない状況になって、いつかは「ひきこもり」から脱出しなければならないという意味だ。親殺し、餓死、自殺という極限例でなくても、ひきこもり続けるというのは非常な苦痛を伴うし、徐々に社会性が失われていく。だから、早期脱出ができればそれに越したことはない。
だけども、引きこもることは否定したくない。
引きこもるのは良くないよ、と言われるかも知れないが、とんでもなく苦痛の伴う「外部」から逃げ出して篭もることは悪い事じゃない。立ち向かって討ち死にするんだったら、ひきこもって何が悪い。
ひきこもりを肯定することというのは、ひきこもりの闇の部分を葬り去ることではなく、闇の部分も含めて肯定することだと思う。自力脱出例だけに焦点を当てて、「ひきこもりを肯定する」という人たちのちゃらけたひきこもり論は、ひきこもりの否定に等しい。
不登校も同じだ。不登校は、ハッピーエンドに終わらないし、ひきこもりになったりもする。貴戸本はそのような当事者の声を表に出した。
この行為が運動的に否定されるなら、こんなにおかしいことはない。
『不登校は終わらない』は終わらない
id:toledさんのエントリ
『不登校は終わらない』は終わらない
やばい。。。読んでるうちに泣いてた。
いいエントリをありがとう、常野さん。
東京シューレの見解について 追記
id:about-h:20050411で書いたことの追記。
この見解文に登場する2人が苦しんだと言っていることは事実であろうし、彼らが貴戸理恵に自分が話したことを削除してくれというのは、全く問題がない。ただ、それを東京シューレの見解文でやってしまったことに問題がある*1。
さて、2ちゃんねるにこんな書き込みがあったらしい(東京シューレ出身者が書き込んだのではないかと推測できる)。これはおそらく本音の部分ではないかと思われる。
87 :名無しさん@社会人:2005/04/10(日) 18:21:59
>>81
ううん、ぜんぜんそんなことはないね。
貴戸理恵の言っていることなんて、タテマエに対するウラ。ただ、子どもは大人や親の前では遠慮する。大人たちは、奥地先生や渡辺先生らの前ではガマンする。それだけ。
貴戸は特権階級なので、長老が死ぬ前に自由に発言できる身分にあるだけ。
そのほか、たいていの人間は、今ある最小限のオプションさえつぶされてはホ−ムスク−リングやフリ−スペ−スひとつ選べない。なので、昨今の子どもたちに風当たりの強い政治状況の風向きを見て発言をひかえている・育ちのよい、浮世離れした世界の住人である貴戸は時局への配慮も、コミュニテイ内部の混乱も、それがひいては当事者たちの発言をゼロ回答扱いさせることになるリスクも考慮せずに気楽に浅薄にものを言っちゃているのではないだろうか?
正直言うと、当事者のひとりとしてなんら新しい発見ではない。気の会う仲間内では、自分の知る限り十数年前からずっと繰り返し語られてきたことだ。フリ−スク−ルや親の会のなかでもとりわけ仲のよい家族や友達とだけ、酒でも飲んだときにこっそりと語られてきたことにすぎない。
学者世界にとっては新発見でも、当事者のコミュニティからすると、白ける話題。いや、タイミングやシチュエ−ションをわきまえない迷惑で思慮のない情報爆弾だった。
現在の不登校を巡る状況を考えたときに、ひきこもりと言う問題は外せない。稲村博の不登校は「無気力症」になるという予言は当たった。これは間違いない。
2ちゃんねるには次のような書き込みもあった。
これと同じ「物語」を共有するのが稲村博氏や斎藤環氏であることを知らない読者は、この著者の「物語」を事実であると誤認することになる。
貴戸は稲村と同じようなことを言っているという解釈だ。これは、東京シューレの見解文にも登場していた*2。
これはもちろん不当な解釈であって、両者の言ってることは同じではない。ただ、東京シューレや居場所関係者がこのように認識する理由は考えておかなくてはならない。東京シューレというのは精神科医などに対して「登校拒否は病気じゃない」と反論することによって運動をしてきた経緯がある。その時、論敵となったのが精神科医の稲村博だったわけだが、結局、稲村の予言通り不登校から無気力症(=ひきこもり)になる人が大量に現れた。ひきこもりの大量発生が東京シューレの運動にダメージを与えたことは間違いない。
つまり、貴戸理恵も斎藤環(稲村博)も運動を脅かす存在として認知されているために、同じ事を言っているかのように攻撃が行われるのであろう。
ひきこもりの存在は不登校業界にとっても無視できないものになっている。だから、もうそろそろ稲村・斎藤を批判する運動はもう限界に近づいているのだと思う。そのことを考えると2ちゃんねるに書き込まれた「タイミングやシチュエ−ションをわきまえない迷惑で思慮のない情報爆弾」という認識が既に時代錯誤であると指摘しなけれればならないんだと思う。
ひきこもり50万人の存在を隠蔽して不登校のことを考えるのは無理がある。だから、稲村・斎藤を批判して守るものというのは既に存在しないはずなのだ。稲村・斎藤を批判して守られるものは、ひきこもりを隠蔽した不登校現象か、ひきこもり現象がクローズアップされる以前の90年代の不登校現象でしかない。
ひきこもり経験者の林尚実は著書の『ひきこもりなんて、したくなかった』で次のように言っている。
私自身は医療不信だったわけではないのです。むしろ、体中がボロボロになっていたので、治療を受けられるものなら受けたいと思っているところもありました。
でも、治療を受けられなかった背景には、その後、両親、とくに母親のほうが不登校児の親たちのサークルにのめりこんでいったことがあると思います。それは日本では最大の不登校関連のサークルであり、フリースクールを開設したり、主催者や関係者が本を出したりと、かなりの影響力がありました。(中略)
当時、ある国立大学の精神科の教授が不登校の治療方法を真剣に研究しようとしていました。「いのちの電話」の創設にも尽力された、献身的な医師だったといいます。
その医師は、不登校の子どもの素質や家庭環境に関する調査をしたり、予後の調査をしたり、治療方法に関する検討をしたりしていました。そのなかには、いまの私にとっては貴重な見識も含まれていたのです。
その教授を攻撃したのは、この不登校児の親たちのサークルでした。このサークルが新聞社に働きかけ、当時の文部省に働きかけて、激しく批判をしました。そのためか、この教授は影響力を失い、むしろそのサークルの主張が少しずつ世間に受け入れられていきました。不登校を教育や医療の問題としてとりあげるよりも、放任する方向へと世論が傾いたのです。−−林尚実,2003,『ひきこもりなんて、したくなかった』: 62-5
ラディカルな形ではあるが、林尚実の記述の中にひきこもり経験者が不登校業界に対して持ってる「いらだち」が示されていると思う。東京シューレが稲村批判をしなくても、どこかの団体が同じようにやっただろう。だから東京シューレや奥地圭子が活動したために不登校が放置され、長期化し、ひきこもりの大量生産が始まったとは思わないし、林尚実の言ってることが一般論としてどこまで妥当なことかも分からない。しかし、稲村・斎藤を批判して何かが得られる時代が終わったのは確かなことだと言えると思う。
東京シューレの主張のリアリティーも、運動としてのリアリティーも今ではかなり低くなってしまっている。だから、今回の貴戸本騒動を第二の稲村事件にしてはいけないと個人的には思う。今回の騒動は不登校の運動が新しい局面に入っていくことのできる契機であって、これを東京シューレが敵対であると認識するなら、東京シューレのリアリティーは今よりもまだ一層低くなっていくのではないか。
東京シューレの運動によって救われてきた人がたくさんいるし、今も東京シューレが不登校当事者の力になっているのは間違いない。これからも東京シューレが活動していく中で、今までの運動の一貫性を最優先にするのではなく、時代に合った不登校の処方箋を東京シューレには描いていってほしい。そのためには今回の貴戸本騒動が絶好の機会になり得ると個人的には思っている。
東京シューレの見解について
貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解(東京シューレ)
参照 id:hikilink:20050410 id:deneb:20050410#p1 id:snusmumrik:20050410
自分はこの出来事の当事者ではない。だから、たとえ知っていても言えることはあまり多くない。見解文から読み取れることに絞ってエントリしたい。
貴戸の本が東京シューレへの批判であると見解文は主張するが、いったいどこが批判なのか疑問だ。貴戸の本が「市民運動がやってきたことの否定」であるというのも理解しがたい。(貴戸は)「巧妙に「不登校は病気である」と受け入れるように促している」という所などは、被害妄想としか思えない。(そんなことが一体どこに書いてあるのか教えて欲しい)
「「明るい不登校」と明るくない不登校などと分断している」と貴戸を批判しながら、「不登校経験者にとって」と不登校を一括して論じている。人を批判しつつ、同じ事を自分たちは平気で行っている。この辺りは信じられないほど鈍感だ。
これらは、このブログで以前にあったKさんとのやりとりと気持ち悪いほど似ている。
参考:id:about-h:20050401
「「当事者」である自分こそが新しく正しい問題提起ができる」という批判もKさんと酷似している。Kさんは「ボランティア」が良いと言っていたが、これはきっと一発ギャグだったと思うので置いておくとして、当事者によって問題提起が出来ないのに、支援者や親によって正しい問題提起が出来てしまうのかということを真剣に考えた方がよい。貴戸のことを「自分についての分析は皆無に等しい」と批判する前に、なぜそのことを自分に問わないのだろうか?
この見解文で、一番考えるべきところは当事者による貴戸批判だ。
東京シューレという団体の公式見解に当事者の声が載るということ。このことをまず考えなくてはならない。
この見解文を読むと貴戸が当事者を騙したという構図を思い浮かべてしまう。しかしその構図は正しいようには思えない。
修論→出版で2人のケースレポートが本人の要請によって削られた。今回の重版で削除を要求した人はこの時に削除を出さず、東京シューレが貴戸の本を糾弾してから、削除要求を出した。そして東京シューレという団体の公式見解に自身の名前入りの文章を載せている。
見解文を読んで彼らは被害者なんだと思う前に、彼らの行為が極めて政治的な行為であることを見落としてはいけない。
東京シューレが圧力をかけたり代筆をしたというわけではないだろう。しかし、今の不登校業界の中にいて、このような状況になってしまえば、「状況」によってこのような行動が噴出してしまうのではないかと思う*1。当事者による2つめの文章の後半では、人称が「私たち」(自分+東京シューレ)となっている。このことに今回の見解文の当事者がどういう位置づけなのかということが現れていると思う。
彼らは削除要求をしているのだから批判されるべきではない。当然の権利であると思う。しかし、削除要求以上のことを東京シューレの公式見解で当事者を名乗り発言する政治的責任は負わなくてはならない。このことは是非記しておきたいと思う。
東京シューレが貴戸を批判し、262カ所の修正リストを出し、インタビューを受けた当事者が東京シューレの公式見解で貴戸を批判したことはハデであるため、目を奪われがちだ。しかし、重要なのはそこではない。重要なのは原点に戻ることである。
貴戸理恵『不登校は終わらない』という本が本当に東京シューレを批判していたのだろうか?ということを考えることが私たちがすることだ。そしてなぜ東京シューレが糾弾を始めたのかということ。それを考えたときに、おそらく今回の出来事がクリアになって見えてくるのだと思う。
*1:誰が具体的に何をしたかということは推測するしかないが
金城隆一・永冨奈津恵・田中俊英 座談会
月刊少年育成2004年8月号「現場から見た「ひきこもり」」から、金城隆一氏・永冨奈津恵氏・田中俊英氏の座談会・「「ひきこもり」議論がうっとうしい」について*1。
田中俊英
そして時々インターネットを覗いたときなどに思うのは、先に書いた活発な「ひきこもり議論」と僕の日常の仕事の現場はかなり乗離しているのではないか、という素朴な疑問だ。
個別に会うひきこもりの方々と活字で読む「ひきこもり」というのは解離しているという実感は自分にもある。もちろん自分で書いている「ひきこもり」という言葉にも疑問は常にある。以前のブログでもこのことを書いた。
「ひきこもり」という単語で他者を呼称すること、自身を定義づけることに全く納得がいかないという気持ちを抱えながらも、それをあえてやっていかなければならない苦悩がここにあるのである。
id:about-h:20050104
もちろん、ひきこもり議論がうっとうしいというのも理解できる。「ひきこもり」の定義を厳密にやらなければならないとも思っていないし、当人の自称でひきこもり認定を行うというのもなんだか違うような気がする。
金城隆一
僕が「ひきこもり」議論に対して持つ違和感というのは、それぞれ議論する人が持つ「ひきこもり」像と、実際の「ひきこもり」の人たちとの間に、ズレがあるということです。たとえば、いろんな支援団体のスタッフの方と話していて感じることですけど、各々が抱く「ひきこもり」というのが微妙にズレているんですね。「ひきこもり」議論というのは実はお互いがズレたまま行なわれているんではないか、と僕はこの頃思っている。
これも良く感じること。ひきこもりと呼ばれる人たちは(自分も含めて)多様すぎて一言で言い表すことなど不可能だ。
数日前に会ったある支援者は、「ひきこもり」について書こうと思ったが、書けなかったと言っていた。日頃会ってるひきこもりと呼ばれる人たちが多様すぎて、「ひきこもり」という一言で表現することをためらったのだそうだ。この感情は自分の中にも常に存在している。
自分の場合は自力で出てきたわけだし、二神さんが介入の線引きをしている1年を越える期間*2ひきこもっていた。だから、支援団体なんて要らないんじゃないかと思ったりもする。でも、それは自分の場合であって、自分のケースがすべての人に当てはまるわけではないし、支援が必要な人は確実に存在している。
だから、芹沢俊介『引きこもるという情熱』という本は批判される必要があると思う。芹沢は「正しい引きこもり方をすればひきこもりは回復する」という主張をし、支援団体や親や精神科医が介入をするからひきこもりは長期化するんだということを彼は言っている。
芹沢がこのような主張をするのは、本人が四十数年前に不登校で、ひきこんでいたという経験をもっているからだろうと推測できる。つまり、彼は自力脱出をした経験から、ひきこもりは自力脱出できるのだという判断を行っている。
しかしこれは2つの点で誤りがある。
- 40年も前のひきこもる行為と近年起こっている「ひきこもり」は別の現象であるので同じように論じるべきではない。
- 芹沢の体験はあくまでも芹沢の体験であって一般化することは出来ない。
とは言え、自力脱出が可能な人はいる。いや、むしろ数としては自力脱出の方が多いはずだ。そして不適切な支援で長期化した例もある。だから芹沢の言うことは当たってるところがある。
しかし、芹沢説を採用すると、そのことによって支援が必要なひきこもりが放置されることになってしまう。だから、自分は戦略的に芹沢は批判対象とし、戦略的に斎藤環を支持をしている。
いや、というよりもそもそも「ひきこもり」について語ることに「正しさ」や「正解」は無い。
「ひきこもり」という言葉を使うことは、経験者にとっては自分の体験を整理することに繋がる。社会的に「ひきこもり」という言葉を使うことは「ひきこもり」を社会問題として構築し、予防や支援や社会復帰をアピールすることに繋がる。
「ひきこもり」についての語ることというのは、そもそもが戦略的なのだ。