貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解(東京シューレ)

貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解東京シューレ

まだ全部読んでないが、奥地圭子を(実名で)批判したであるとか、インタビューを受けた人たちが騙されたということが書かれている。これらは事実と異なるし、言いがかりに近い。


巻末には東京シューレ貴戸理恵に出した修正・削除リストも載ってる。


貴戸理恵の公式的な反論が欲しい。

ニートとひきこもり

では、ニート(無業者)という定義はどうなのか?

ここで着目した若年無業者は、(1)高校や大学などの学校及び予備校・専修学校などに通学しておらず、(2)配偶者のいない独身者であり、(3)ふだん収入を伴う仕事をしていない15 歳以上34 歳以下の個人である。以下、無業者と記した場合、上記の定義による「無業者(通学、有配偶者を除く)」の個人を意味する。
若年無業者に関する調査(中間報告)

ひきこもりは通常は就労をしないので、ニートの中にひきこもりは含まれる。


玄田有史は『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』で次のように書いている。

 ニートは働こうとしていないし、学校にも通ってない。仕事につくための専門的な訓練も受けていない。英語の"Not in Education, Employment, or Trainingの頭文字"(NEET)から、ニートはきている。
 その姿は、ひきこもりに似ているが、ニートのすべてがひきこもりのわけではない。ニートには親や家族に生活を依存しているパラサイト・シングルも多いが、だからといって気楽に親のスネをかじっているわけでもない。

玄田有史 ・曲沼美恵,2004,『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』幻冬舎 : 10

これらから漠然と考えられるのは次のような図だ。



「ひきこもり」が「ニート」に含有される図だ。


樋口明彦は次のように定義をしている。

  • ひきこもり(友人がいずに、働いていない)
  • ニート(友人はいるが、働いていない)
  • 離転職リピーター(アルバイトを繰り返している)

このように定義する根拠は「支援」の在り方が違うためと樋口は説明をしている。

図に表すと次のようになる。



ひきこもりがニートに含有されるとしても、それは別物であるという定義だと解釈される。


しかし、この定義の背景には「戦略」も見えてくる。つまり、ひきこもりがニートに含まれるならば、ニートを糾弾することはひきこもりを糾弾することになる。不運なことに「ニート」とは働かない人のことなので、ニートは道徳的糾弾の対象になる。


そこで、ニートとひきこもりを分離するという戦略をとる。ニートとひきこもりは違うのだということを定義で言ってしまえば、ニートへの糾弾はひきこもりには届かなくなる。つまり、ひきこもりを防御するための定義とも考えられる。

ひきこもりの定義(勉強会でのメモ)

「ひきこもり」について話そうと思うと、「ひきこもりとは何か?」という線引きをしなければならない。つまり「ひきこもりの定義」の問題だ。

 いろんな定義をみてみると、当たり前と云えば当たり前なんだけど、その人がどのような立場で「ひきこもり」現象にかかわっているか、ということによって、定義の仕方が違っていることがわかる。いわば、これらの定義は実践的活用を前提として組み立てられている。だけど、受けとる側はしばしばそうした文脈を離れているから、そこの意味合いがわかりにくくなるのかもしれない。

a. 斎藤環精神科医療のための定義(6ヶ月以上という目安、状態のみの定義)
b. ガイドライン→精神保健福祉のための定義(包括的なぶん曖昧、社会化)
c. 塩倉裕→ジャーナリストとしての定義(問題の特定、本人の意思ではない)
d. 工藤定次→訪問活動のための定義(本人の意思も含む、介入の正当性)

id:knotさんの言うように、定義考え方や立場によって違う。


「ひきこもり」という概念はそもそも「残余カテゴリー」である。社会参加をしていないが精神障害が原因ではないというように、マイナスで定義をされている。また「ひきこもり」は一般的に使われる「ひきこもる」の名詞形であるので、広い意味で捉えることができる。

勉強会でのメモ

昨日、ある「ひきこもり」系研究会に出席。大規模な会の良さもあれば、小規模の良さもあると実感。とても楽しかった。すべての人とちゃんと話すことが出来なかったので、機会があれば(というよりも積極的に機会を作って)また個別にじっくり話をしてみたい。

ひきこもりとリストカットと

リスカ*1していた当時は、やっていなかったら生きていけなかったと思います。だから、自分の体を傷つけたことに後悔していません

−−ロブ@大月,2005,『リストカットシンドローム2』ワニブックス : 110 (カヨさんのインタビュー)

自傷が必要な人もおるんやろうけど、経験者からするとやらないにこしたことはない。だって、長い目で見て、絶対に自分にとってプラスな行為じゃないから」

−−ロブ@大月,2005,『リストカットシンドローム2』ワニブックス : 133 (すみれさんのインタビュー)

この捉え方は「ひきこもり」に似ている。上の文章のリスカの部分を「ひきこもり」に入れ替えるとこうなる。

  • 「ひきこもり」をしなければ生きていくことが出来なかった
  • 「ひきこもり」をしたことを後悔していません
  • 「ひきこもり」はやらないにこしたことはない
  • 「ひきこもり」は長い目で見て、絶対に自分にとってプラスな行為じゃない


ひきこもり経験者が自身の体験を語る語彙によく似ている。肯定も否定も出来ないが、やらないにこしたことはない。でも、その時、引きこもることをしなければ生きてはいけなかった。


ひきこもりについて語られるのかと錯覚するほど「リスカ」と「ひきこもり」は似ている。


ひきこもりは男性が多く、リスカは女性が多い。原因となっているものは似ていて、性別によってその現れ方が違うのではないだろうか。



以下はリストカッターについて。

一般的に言うと、リストカットしている子は〝クラス″という枠組みの中で環境に過剰適応しているか、まったく適応していない両極端なケースが多い

−−ロブ@大月,2005,『リストカットシンドローム2』ワニブックス : 171 (名越医師のインタビュー)

これもひきこもりと類似している。学校でドロップアウトして不登校となって引きこもる人*2。学校では(過剰)適応していたのに、大学でやることが分からなくなって引きこもる人・就職活動で学校的振る舞いが通用せずひきこもる人・学校的振る舞いが仕事で通用せず引きこもる人。


ひきこもりにもリスカと同じく2つの傾向がある。そして、そのどちらも「学校」が原因として考えられる。


学校に適応できないとひきこもるかもしれないが、学校に適応してもひきこもるかもしれない。


いずれこの点を詳細に論じることをしなければならない。


以下は症状改善について

「やっぱり、自分の病気に問いを持ち続けている人は治っていきます。自分の病気に問いを持ち続けていれば、診る側にぶつける問いの質も上がってくる。精神科を受診して受動的な態度で〝治してもらおう″というのでは、いつまでもよくなりません」

−−ロブ@大月,2005,『リストカットシンドローム2』ワニブックス : 177 (名越医師のインタビュー)

確かにその通りであるとともに、心強い一言。


生きることに「疑問」を持ってしまったら「問う」しかない。「疑問」を隠蔽しても、身体や心に何かの形で症状として現れる・・・だから問い続けること。そしてその問いのレベルを上げていくこと。生きるためには「問う」ことが必要だ。


最後に著者のメッセージを引用しよう。

 自傷行為をやめた人たちは、口を揃えて言う。
 「やめた今考えれば、リストカットにメリットは一つもなかった。ただあのころ、生きていくためにたった一つの手段にすがっていた自分を、責めるつもりはない」
 自傷行為によって生きている実感を得るのは、一時しのぎでしかない。そこから抜け出すには、試行錯誤が不可欠だ。勉強に、恋愛に、仕事に正面からぶつかり、失敗したら立ち上がる。それを繰り返すことで僕たちは自分の能力を知り、社会と向き合えるようになる。
 リストカットする人たちに、僕は「切っても、生きているだけでオッケー」と言葉をかける。彼ら・彼女たちに安心してもらうためだが、真意はむしろその先にある。彼ら・彼女たちが絶望の境地から自力で這い上がり、試行錯誤の末に希望を獲得することを期待しているのだ。

−−ロブ@大月,2005,『リストカットシンドローム2』ワニブックス : 13-4

あえて付け加えれることはない。大事なことはここに言い尽くされているように思う。

*1:リストカットの略

*2:ちなみに自分

リストカットシンドローム2





リストカットシンドローム(2)

リストカットシンドローム(2)

  • 作者: ロブ@大月
  • 出版社/メーカー: ワニブックス
  • 発売日: 2005/1
  • メディア: 単行本

 
前作『リストカットシンドローム』から4年。前著で登場した4人のその後の人生と、新たに8人の聞き取りが収められている。前作と同じく非常に質が高く名著である。今回はひきこもりと関係がありそうな所を引用しつつ紹介しようと思う。


著者・ロブ@大月
公式ホームページ http://www.robootsuki.com/ 

ひきこもりと家族

ひきこもりと家族は密接に関連している。個人的には、ひきこもりという現象は家族の欠損によって生まれるのではなく、近代家族の宿命として生んでしまうのだと思ってる。(今のところ論証不可)


我が子がひきこもりになった場合、親は助けてやらなければと思う。もちろん、当初は「外に出ろ」や「働け」という説教系になって子供コミュニケーションが成立しない。家族のそういう行為の後ろには、「我が子を教育をしなければ」という家族としての「ソフト面での義務」が存在している。ソフト面での規則があるから、家族は説教を行う。無関心なら介入は行われない。


「家族役割」の面はどうか。社会参加をしないひきこもり*1は誰かが扶養しなければ、餓死*2する。だから家族が扶養をする。これはハード面での義務だ。つまり「家族役割」に相当する。


つまり、ソフトでもハードでも家族はひきこもり支援をすることになる。ソフトとハードの乖離が近代家族が崩壊する契機であると山田や他の家族社会学者は考えるが、それは逆に言うとソフトとハードが一致しているならば、近代家族らしい家族が体現できている言える。


ならば、ひきこもりを抱える家庭というのは近代的家族であり、抱え込みという現象もいかにも「近代家族らしい行為」と言えよう。つまり、家族機能の欠損として抱え込んでいるわけではない。むしろ、家族機能が存在するから、ひきこもりの抱え込みは起こるのだ。ひきこもりの抱え込みはダメ家族に起こってるのではなく、〈正常な〉近代家族に起こってるのである。

*1:働かない、家族以外とコミュニケーションをとらない

*2:上山和樹