溝上慎一『大学生論』

現代大学生論 ~ユニバーシティ・ブルーの風に揺れる (NHKブックス)

 いずれの学生にもいえることは、見通し、やりたいこと、将来の目標が認識レヴェルでとどまっており、リアリティある形で機能していないということである。やりたいことを見つけるだけでも難しい場合が少なくないが、それを忍耐強く実現レヴェルに移して取り組んでいくことはもっと難しいことを、この調査結果は示している。
 −−溝上慎一,2004,『現代大学生論−−ユニバーシティー・ブルーの風にゆれる』日本放送協会出版局 :177


「大学生」の中にある絶望は「自己選択」にまつわるものである。
将来の見通しはあるがそれを行動に移していない。ズルズルと年月はたって、そのうちに大学の4年間が過ぎ去ってしまう。これが多くの大学生の平均的な姿だ。


大学に入学できるのは人口の4割、男性で5割。だいたい半数の人間が大学生になる。数字的に見れば、社会の中では恵まれた部類に属している訳だ。しかし、実態はこのようなもの。なぜこんな生活を送ることになるのだろうか?

(1)自分で課題が出来ない

「これが大事だ」「これをやれ」といろいろいって欲しいという者が少なからず出てくる。「規範や規則で縛って欲しい」などとはいわないにしても、課題やモデルは与えて欲しいと願っている。それが力強く与えられなくなったのが現代である。
−−溝上慎一,2004,『現代大学生論−−ユニバーシティー・ブルーの風にゆれる』日本放送協会出版局 : 169

学校の中では定期テスト・小テストをはじめノート提出や毎日遅刻せずに学校に行くことなど日々課題が外部から与えられる。しかし、大学に入った途端に外部から課題が与えられることはほとんど無くなり自分ですべて設定して行かなくてはいけない。大学の時間割の設定も個人に任せられるので、朝の授業は入れずに昼から大学に行くことも可能だし、単位を満たせば卒業できるので大学に通い詰める必要もない。


だから、大学に入ると今までの生活がガラッと変わってしまう。外部与えられてきた課題が消滅するのだ。そうすると、いったい何をして一日を過ごしていけばいいのか?という事が分からなくなるのである。


従ってここから導き出されるのは、高校以前の教育課程に自分自身に対して課題を課していくことを学ぶ機会が存在していないという問題点である。選択の機会が与えられず育てられたのに、いきなり自己選択して自己責任だと言われていったいどうしたらいいのか分からず4年間過ぎてしまう。これが現代大学生にまつわる問題である。

(2)夢と実現への道の乖離

第三の問題点として、自身のやりたいことや将来の目標から出発して人生形成をはかろうとする場合、それを実現する場所や、何をどうすればいいかがわからないということがある。歌手になりたいと夢見て、「スター誕生」のオーディションに応募するくらいのことならまだわかりやすい。しかし、たとえば「国際社会で働きたい」「人の手助けをしたい」といった抽象的な生き方を求めている青年の多くは、それがどの場所(学部や学校、職場など)で頑張れば実現するのか、それが具体的にどういう職業、生き方を指すのかがまるでわからないでいるケースが多い。
−−溝上慎一,2004,『現代大学生論−−ユニバーシティー・ブルーの風にゆれる』日本放送協会出版局 : 175

自分がなりたいものはぼんやりであれ思い描くことは出来る。しかしその道筋が全く見えない。この問題を解決するには少しでも思い描く何かに近づくという他ない。今いる地点からは見えないモノが少し進んだところで見えるものである。だから、どうやれば良いのかわからないと呆然と立ちすくむのではなく、少しでも前に進むことが必要になってくるのだ。


しかしどんな事でも同じだが「最初の一歩」がとても難しい。「最初の一歩」が踏み出せたなら後は流されるままであっても望むモノが手にはいることは良くあること。しかし、「最初の一歩」がやはりなかなか踏み出せない。


このことは実は「ひきこもり」の問題にも共通している。つまり、ひきこもり中の人間にとってはひきこもりから脱出することが目的となる訳だが、多くの大学生が何も出来ずにズルズルと怠惰な大学生活を送ってしまうのと同じで、ズルズルとひきこもり生活を続けていってしまう。


また、このような大学生活を送った大学生は「自分はダメな人間だ」という感想を良く漏らす。何かやらないといけないことは分かっていても、身体がそちらの方に向かないという状態が続いていくからだ。努力しなければならないことが分かっていても出来ないというような状態が続くと自分はダメな人間であると認識してするようになってくる。これもまた「ひきこもり」と同じ構造である。


要するに「自己信頼」の低下である。「自己信頼」の低下とは「自分は「できる」んだ」という意識が低下することだ。


この「自己信頼」の低下はは問題からの脱出をさらに難しくする。ただでさえ抜け出せない状態から、自己信頼が低下してしまうと、抜け出す意力さえも削がれていってしまう。

まさに「どつぼ」
問題から脱出できない無限のループである。
これもまた「ひきこもり」と同じ構造。


では、どうすればいいのか?
第1に「きっかけ」である。それも外部からのきっかけが重要である。自分自身で変われず、自己信頼が低下してさらに何も出来ない状態を打破するためには、どうしても外部からのきっかけが必要である。


このことは現代大学生の多くが「就職活動」をきっかけに動き出すことからも明らかだ。文系の大学生の就職活動はだいたい3回生の秋から冬にかけて始まるが、この時期に今までの生活から次第に離陸し大学卒業とともに社会人となる。


この離陸が誰でも出来るものではなく、職敗北組から「ひきこもり」がうまれているが、大多数は社会人となることが出来ている。この結果は「外部からのきっかけ」が必要であることを支持している。*1


従って「ひきこもり」においても外部からの働きかけを行う必要性が要請される。


本人が「きっかけ」を望まなければ働きかけるべきではないという主張がある。本人が嫌がっているのに「きっかけ」を外部からもたらすのは確かに「暴力」である。ただ外部から「きっかけ」を与えないということは、ひきこもりを長期化させることになる。ひきこもりを長引かせて、本人を追い込んでいく*2ことも「暴力」以外の何ものでもない。


第2に「最初の一歩」を歩み始めることである。問題がいきなり解決するなんてことはない。だから少しずつ少しずつ変化をつけていければ、そのうちいつか問題は解決しているものではないだろうか。


ただこのことを実行するには最初の一歩を踏み出す経験が必要だ。つまり「最初の一歩を踏み出せば何とかなっていくものだ」ということを知ることが重要なわけだが、このことは最初の一歩を踏み出す経験がなければ実感として湧くものではない。


ひきこもりから社会全体の話に戻すならば、現在の学校教育の中にこのようなことを学ぶ機会が全くといって良いほど存在しない。このことが、無為な生活を送る大学生を生み、ひきこもりを生んでいるように思えてしかいない。


大学生の実態を見るとひきこもりに存在する問題はひきこもり特有のものではなく社会全体が抱えている問題であることが分かってくる。

*1:もちろん例外は存在している

*2:家族もろとも