「ひきこもり」をめぐる暴力性

「ひきこもり」は多様である。


これはごく当然のこと。個人が多様であるのと同じく、ひきこもりと括られる人たちも一人一人違った存在だ。ひきこもり方も違えば、ひきこもった理由も違うし、本人を取り巻く環境も違っている。


ここには2つの問題系がある。1つ目は「名付ける」という暴力性について。2つ目はカテゴリーに関する問題である。

名付けの暴力

名付けるという第一の暴力が存在したのである。

−−ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』

1つ目はレヴィ=ストロースを取り上げた箇所で展開されるデリダの原エクリチュールによる暴力の問題である。私たちを取り巻く世界はカオスである。しかし、私たちはそのカオスに対して「名付け」を行うことによって、自分たちに認識可能なものへと変化させる。


「ひきこもり」の問題で言うならば、対象となる人間たちをどのように名付けるか?という問題になる。つまり「ひきこもり」と名付けるならばメンタルに問題を抱えたという意味合いが強制的に付加されるし、「ニート」と名付けるならば就労をしていないという意味が強制的に付加される。


ここに権力関係が存在する。つまり、名付ける者(強者)名付けられる者(弱者)の権力関係である。名付ける者は「名付ける」という行為を出来るので、名付ける者にとって都合の良い価値観をその「固有名」に付加することが出来る。一方、名付けられる者は受け身であるので受けたくはない価値観を強制的に受け入れなければならない。


これは一種の「暴力」である。


ひきこもり問題にはデリダの言う「第一の暴力」が存在している。

カテゴリーの暴力

2つ目の問題はカテゴリーの問題である。
「ひきこもり」というのはカテゴリーである。つまり、共通の性質に着目して人々を一つのグループに囲ってしまう。しかし、個人は多様である。


カテゴリーをつくるということは、多様性を葬り去り、まるで一つのモノであるかのように扱ってしまう。当人にとってみれば嫌なカテゴリーを強制されるし、また自身の多様性が無いかのように扱われる。従ってこれも「暴力」である。

クレーム申し立て

id:about-h:20050103でも書いたように社会問題は誰かがクレームを申し立てないと社会問題とならない。声を上げないと誰も気づかず実態として問題があっても見過ごされてしまう。


従って「ひきこもり」の問題もクレーム申し立てが行わなければならない。しかし、クレーム申し立てには「ひきこもりが問題なのだ」と言わなければならない。つまり「ひきこもり」という「名付け」を行わなければならないし、「ひきこもり」という「カテゴリー」が必要になってくる。


ここにジレンマが発生がある。つまり「暴力」に対してクレーム申し立てをしようとすると、逆に「暴力」を受け入れなければならないのだ。皮肉な逆説である。


デリダは純粋暴力は存在しないと言う。つまり何かしらのアクションを起こすことは何かしらの暴力行為を宿命的に併発する。だから結論としては、どの暴力を引き受けることが耐えうるのかということを選択しなければならないことになる。


「ひきこもり」と名付けることやカテゴリーに括ってしまうことは「暴力」ではある。しかし逆にその行為がないと「ひきこもり」を社会問題として社会に訴えかけていくことが出来ない。「ひきこもり」への名付けとカテゴリーの暴力を禁忌するか、実態を放棄するか。


この選択を行わなければならないのである。「ひきこもり」にあまり関係のない人たちはこの選択をする必要はない。しかし「ひきこもり」に対して関係のある人たちはこの選択を迫られるのである。そして当事者や経験者は自身に対しての選択と、自身以外への人たちをどう扱うかというという2つの選択を迫られることになる。


「ひきこもり」という単語で他者を呼称すること、自身を定義づけることに全く納得がいかないという気持ちを抱えながらも、それをあえてやっていかなければならない苦悩がここにあるのである。