引きこもりの回復過程と家族 ――「親が変わる」という戦略の両義性――川北稔 (名古屋大学)

「親が変われば子供も変わる」ということについての発表。「ひきこもり」の問題では良く聞く話だ。両義性とは「引きこもりの原因であるとともに初期対応の主体」であることを指している。


「ファミリー・アイデンティティ」という言葉がある。上野千鶴子フェミニズムの文脈で使っている言葉だ。青木保上野千鶴子近代家族の成立と終焉』について評した文章では「戦後日本社会の変化の多くは「家族」をめぐっておき、「家族問題」の困難が事件となって現れると、社会は衝撃を受けた。」と述べられる。「ひきこもり」が衝撃的に受け止められたのも恐らくこの文脈であろう。


私たちが「家族」と言って思い出すモノを社会学は普遍的だとは考えない。歴史的に生まれた一つの価値に過ぎないと考える。牟田和恵『戦略としての家族―近代日本の国民国家形成と女性』にも明確に表れている。

近代において家族とは人間を社会に生きるものとして、近代の「国民」として社会化するエージェントなのである。近代とは、それまで人を社会に編入する役割を果たしてきた地域共同体や職能共同体が背後に退き、「家族」が特権化する時代なのである。

−−牟田和恵,1996『戦略としての家族−−近代日本の国民国家形成と女性』新曜社 : 155

社会学の中では「知識社会学」と呼称される考え方。「ひきこもり」問題にこの視点を導入する必要が確実にある。


「親が変わられば子供も変わる」という言葉は「親の意識がちゃんとしていれば子供はひきこもらない」ということを前提としている。つまり、家族機能の欠損がひきこもりを生み出しているという考え方だ。


しかし「ひきこもり」は家族の欠損によって生まれるのではなく、むしろ「近代家族」そのものが宿命的に生み出しているように思えて仕方ない。少なくともひきこもりへの取り組みというのは「ファミリー・アイデンティティ」への批判と、「近代家族」とはどういうものなのかということが問われるべきである。