「スティグマ」と「ひきこもり」


「ひきこもり」の人というのは他者から見て一瞬で分かるというものではない。肉体的な問題ではなく精神的な問題だ。だから注意深く探さないと「ひきこもり」であるということは分からない。いや、注意深く探しても分からないかもしれない。


だから「ひきこもり」というものが「スティグマ」となるのは難しい。スティグマが他者から忌み嫌われるマークであるなら、他者から不可視の「ひきこもり」は「スティグマ」にはならない。だから、「ひきこもり」に他者の〈まなざし〉を重視する「スティグマ論」はさほど貢献しないように思う。


ただ自分で自分に「スティグマ」を与えることは可能だ。「自己疎外」だ。


このことが顕著になるのは、ひきこもり中ではなく、むしろひきこもりから脱出した後である。

よはど詮索しないと見つけにくいという「スティグマ」の含みは、かえって、常人側の好寄の〈まなざし〉にいつもさらされているスティグマ所持者の状況をよく表現する。スティグマ所持者は、その利点を生かせば、逸脱者の世界と常人の世界とをしばしば〈往来〉することができるけれども、むしろそのためにどちらの世界のメンバーシップも、苦汁にみちた「演技」のたまものでしかない。

−−大村英昭,1979 「スティグマとカリスマ――「異端の社会学」を考えるために」『現代社会学』現代社会学編集委員会 :121


ひきこもりから脱出した人間は、ひきこもりによって受けた精神的ダメージを抱えつつ、同時に外の世界で生きていかなければならない。これがひきこもり経験者に「二重生活」を強いる結果となる。「二重生活」とは「ひきこもりであった自分」と「ひきこもり後の自分」の2つの自己像を同時に持って生きることを指している。


「ひきこもり」とは引き籠もる状態を指している。しかし、この引き籠もる状態を抜け出して外の世界で生きたとしても「ひきこもり」という自己規定は外せない。なぜなら、ひきこもりで受けた精神的ダメージが「ひきこもり」であったことを忘れさせてはくれないからだ。


つまり「ひきこもり」は脱出後に外の世界では「ひきこもりであった」ということを隠し通すような「苦汁にみちた演技」が必要になってくる。もちろん周りに「自分はひきこもりだった」と言えばいいのかもしれないが、これがなかなか難しい。ほとんど人は「ひきこもり」ということを正確に知らないし、贅沢病や怠け者的な見方をされる危険性が高い。下手をすると犯罪者予備軍だとみなされかねない。


同期と比べて老けてたり、高年齢な理由を聞かれたり、ひきこもりの期間のことを勘ぐられたり……そういう時にゴフマンの言ったような苦汁にみちた「演技」がなされる。*1


そして、もし自分がひきこもりであったことを許容する空間があったとしても、脱出してしまった後では当事者ではなくなるし、しばしば当事者からは「おまえは脱出しているのだからひきこもりではない」という差別化を行われてしまう。強者になったわけではないのに、弱者から「おまえはもう弱者じゃない」と言われる。これはやはり辛い。


いったいどこにアイデンティティを置けば良いのだろうか?


脱出した後には「所在なさ」が待っている。どこにも所属できない「所在なさ」だ。


それに加えて、ひきこもりで受けた精神的ダメージは残っているし、就労の問題もある。


ひきこもりの兄を弟が撮影した『home』という映画がある。『home』の副題は「ひきこもってもいいじゃないか。ちょっと遠回りするだけだよ」だそうだ。これは撮影をした弟の言葉のようだ。しかし、ひきこもりだった兄はこう言っている。

 「ひきこもってもいいじゃないか。ちょっと遠回りするだけだよ」
  ちっとも、よくない。
 この一文を、そのままの意味で弟がとらえているのだとしたら、私は、これからも弟と対決していかなければならないだろう。

−−小林裕和,2002『home』のパンフレット

「ひきこもり」はまるで「亡霊」のようにとりついて離れない。『home』の小林裕和(兄)の言うようにひきこもりから脱出したって「ちっとも、よくない」。


もはや当事者ではない。ひきこもりを公表して他者からスティグマタイズされるか、隠し通すか。たとえ隠してもゴフマンの言うような「苦汁にみちた演技」的な生活を送らなければならない。


「ちっとも、よくない」

*1:ゴフマンの「スティグマ論」は脱出後の「自己疎外」=「アイデンティティの苦悩」には貢献できる。「かくし通せるだろうかという当人の不安」と「苦汁にみちた演技」にゴフマンは注目したが、これは脱出後に顕著に表れることだ