自由で不自由な社会で生きていくためには



自殺学は貧困*1によって自殺は生まれないという。


では、経済的な要因は無視できるか? もちろんそういうわけではない。日本の年間の自殺者は1998年に激増し、それ以後3万人を越え続けている。参考リンク:自殺死亡の年次推移


1998年に自殺者が激増した理由を探すと、1997年に橋本内閣による財政再建というものがあげられる。財政を再建するというのは、すなわち税金を増やして政府の財政を立て直すことを意味している。すなわち消費税5%への増税である。増税が決行され、平成不況は真の不景気に突入することになった。そして、それに呼応する形で自殺者が激増した。


景気が悪いと自殺が増える。


しかしそこにはもう少し複雑なメカニズムが存在する。


デュルケムは『自殺論 (中公文庫)』で急性アノミー自殺というものを上げている。これは社会システムが急激に変化すると自殺が起こるというものだ。個人レベルでいうと、今まで慣れ親しんできた環境が崩壊して対処できない!どうしよう!というように、将来が見通せなくなって自殺する人増えるということになる。


ただ、デュルケムの指摘の秀逸なところは、このような自殺増加は不景気のようなマイナス要因だけに限ったことではないということだ。プラス変化でも自殺率は上がることはある。


「正」であれ「負」であれ、人間は環境の変化に弱い。


「自分は強い」と思い込んでいる人もいるが、それはたまたま大きな環境の変化が無かっただけではないだろうか。環境が違えば、引き込んでしまったかもしれないし、アルコールに依存したかもしれないし、リストカットしているかもしれない。誰にでもひきこもりは起こりうるし、誰にでも依存症に陥ることがある。


流動性が高いと環境が常に変化する。


流動性が高ければ、いろいろな物が買えるし、いろいろな職業につけるし、いろいろな出会いが期待できる。流動性が高いということは「自由」を意味している。「自由」はいいことだ。これは間違いない。しかし、変わり続ける環境に適応しきれなかった人は、どうなるのか? 


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98年に自殺者が増加した原因はリストラや中小企業の倒産であるという。自殺した彼らが生き続ける方法は客観的に見れば存在していた。返せない借金を抱えているなら自己破産という選択があるし、失業であれば条件を妥協すれは生きていくだけの仕事は見つかるはずだ。しかしそういう選択は行われなかった。


それは、「人が生きる」ということが、ただ生きているという訳ではなくて、その人がその人自身の人生を生きているということを意味しているからだ。例えば、人生のすべてを自分の仕事や工場に注ぎ込んできた人にとって、そういうものが倒産や失業で奪われてしまうということは、人生の終わりに意味しているに等しい。


経済が長期の不景気になることがなければ、彼らは自殺することは無かっただろう。しかし、自殺という手段を取らなくても、アルコール依存やリストカットやひきこもりは起こっている。自殺という現象はショッキングだが、その背後にはひきこもりをはじめとした数々の問題が存在している。


id:about-h:20050124でエントリしたスウェーデンの「知能検査のスコアと自殺率」の論文は、個人の認識能力と問題解決能力の重要度に焦点を当てている。この論文の結論は認識能力と問題解決能力の欠如が自殺を生み出すということだった。


この結論を不景気の煽りを受けて自殺した人たちに言い放つのは暴力であるかもしれない。なぜなら、個人が悪い*2といっていることになるからだ。


自殺した人たちは確かに認識能力と問題解決能力を欠いていたと言えるかもしれない。今まで自分が生きてきた世界とは違った世界があって、例え低賃金労働であったもそこにはまた違った価値と幸せがあることを知っていれば、自殺しなかったかもしれない。中小企業の経営者では、家族名義で借金を借りたり、知人・親類縁者に金を借りていたり、どうにもならない状況で自殺をする人が多い。自己破産をすれば周りに迷惑がかかり、恥知らずと呼ばれるのかもしれないが、それをすることができれば彼らは自殺せずにすんだかもしれない。


しかし、そうはできなかった。


というよりも、社会がそうさせてはくれなかったのだ。


社会的規範に縛られて合理的な行動ができない。自己破産や条件の低い職業への再就職は合理的行動だ。しかし、この合理的な行動をとることができないように社会的規範が自殺者を縛っていた。だから自殺する。社会的規範に縛られて合理的な行動ができないということが、すなわち、社会の中で生きるということなのだから。


社会は自殺を許さない。しかし自殺をせざるを得なくしたのも社会だ。社会はニートを許さない。しかしニートになせざるを得なくしたのも社会だ。社会はひきこもりを許さない。しかし、引き籠もるざるをえなくしたのも社会だ。


流動性が高い社会では予想外に環境は変化する。ひきこもらなければならない状況や、自殺せねばならない状況や、何かに依存しなければならない状況が突然にやってくる。流動性が高い社会では絶対安全な所は無い。


私たちが住んでいるのはこういう社会なのだ。


リストラされて自殺する人。彼らは自殺することを予測して会社に務めていたわけではないはずだ。学校で不登校になる人。彼らは不登校になるだろうと予測して小学校や中学校や高校へ入学した訳ではないはずだ。大学の就職活動でつまづいてニートになる人。彼らは大学に入ったときに卒業したらニートになると思ってはいなかったはずだ。


高い流動性は予想外のことを起こす。誰もがいつ逸脱するか分からないリスクを負っている。


私たちが住んでいるのはこういう社会なのだ。


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脱落の可能性が誰にでもある社会であること。このこを脱落していない人にも脱落してしまった人にも訴える必要がある。それが上山和樹さんが最近呼びかけてらっしゃる「何度でも復帰できる社会」の前提にもなるだろう。


では、既に脱落してしまった人はどうしたらよいか? 「何度でも復帰できる社会」を行政的に求めていくことも一つの強力な手段だ。このはてなダイアリーでは、上山和樹さんの呼びかけに加えて、さらに少し違ったものを求めたい。それは、私たちが生きている社会は変わりようがないということが理由だ。災難から逃れてもまた災難に襲われるかもしれない。ひきこもりから脱出したとしても「生きにくさ」はあまり変わらない。


だから逆説的な結論が必要になる。つまり、誰もが脱落するリスクがあるならそのリスクを低く抑えるしかない。具体的にはスウェーデンの自殺研究論文が言ったように認識能力と問題解決能力を身につけることだ。


脱落しないということ、脱落から脱出すること、脱出後に再脱落しないということ。認識能力と問題解決能力をつけることが処方箋たりうる。これがこのはてなダイアリーの伝えたいことだ。

*1:ここでいう貧困とは慢性的な貧困

*2:しかも勉強ができないからだと言っている