オルタナティブな生としての不登校


貴戸理恵は「物語」の整理に彼女はいくつかの立場を提示している。


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貴戸理恵は「不登校の肯定」+「不登校によるマイナスを問題化」する立場として〈当事者〉をあげ、そこに不在があったという。


「ひきこもり」に読み替えてみると「ひきこもり」は実はどこにも入らない。オルタナティブな生き方として「ひきこもり」が成立しない(id:about-h:20050201)。「ひきこもり」がオルタナティブな生き方だからこそ、年月は人それぞれだが、ひきこもり状態の脱出が試みられる。だから貴戸理恵が言う意味での「肯定」という立場は「ひきこもり」には基本的に存在しない*1


もちろん「引き籠もること」は肯定されるべきだ。しかし「ひきこもり」は否定されるべきでもある。このことがひきこもり問題の理解を難しくしていて、フリースクー系の不登校とは一線を画しているように思われる。その点では「ひきこもり」は「リストカット」に近い性質を持っていると言えよう。以前にも引用したロブ@大月はリストカットを次のように言っている。

リストカットを「克服すべきもの」と考えるのではなく、「共に生きていくもの」と考え「いざとなったらリストカットしてもいい」と思うことによって心の余裕ができ、逆にリストカットを卒業する方向に近づけるのではないだろうか。

ロブ@大月『リストカットシンドローム』 : 9

「ひきこもり」の理解の仕方はリストカットによく似ている。引き籠もることを責めることはマイナスに働く。なぜならば「ひきこもり」は防御行動であって、部屋から出ろ!ということはさらに防御行動が強化されてしまうからだ。結局マイナスにしか働かない。


とすれば、第一段階として引き籠もることを肯定することが必要になってくる。そして第二段階として脱出が要請される。1ヶ月ほど前に「ダブルスタンダード」という言葉で言い表したけども、「ひきこもり」は出る/出ないの二極論で捉えてはならない。とはいえ、第一段階で引き籠もることを肯定したとしても、全員が自動的に脱出できるわけではない。むしろ完全に「ひきこもり」状態を肯定してしまうとひきこもりは長期化する。そして逆に無理矢理出そうとしたり、出ようとしたらこれも悪化を招く。


ロブ@大月はリストカットを「克服すべきもの」と考えるないと言い表したが、「ひきこもり」も同じように捉えられるべき問題なのだ。


リストカットやひきこもりに比べてフリースクール系の不登校は救いがあるように思える。「明るい不登校」「選択としての不登校」という言葉があって、通常の学校から逸脱しても逸脱した先のコミュニティーに所属できる。逸脱した先で自身を肯定的に捉えることが可能であり、不登校貴戸理恵が言うような「不登校の〈当事者〉の物語」が紡ぎだすことが可能なのだ。


世の中はオルタナティブな人生を認めていこうという方向に動いてるようだ。不登校オルタナティブに生き方で回収できるできるかもしれない。id:about-h:20050201で引用したように「シューレ大学では自分が出せる」というような自分の居場所を不登校は確保できる。でも、ひきこもりは難しい。いつまでもひきこもっている訳にはいかない。


オルタナティブな社会だとか生き方という物語で回収しきれないもの。それが「ひきこもり」なのではないだろうか。

*1:親の場合だと、この表にもあるように「ひきこもりは受容せざるをえない」という立場が想定され不登校との共通性が指摘できる