芹沢俊介の認識


芹沢は次のようにひきこもりについて次のように述べている。

まずそこでの滞在(=ひきこもり中)の記憶がほとんどないことです。ということは閉じこもっている自分を否定的に見つめる自分(社会的自己)や、自分以外の他者の視線がないことを物語っています。不安や恐怖の感覚を訴えていないことからも推測できるように、ダメージを受けず滞在期を純粋に寵もることで通過することが可能であったことを伝えているのです。

−−芹沢俊介, 2002『引きこもるという情熱』雲母書房 :104 (斜体筆者加筆)

「記憶がほとんどない」ことはだいたいのひきこもりに共通しているように思われる。理由は2つ。(1)毎日たいして何もやっていないこと(2)イベントがないので毎日同じ事をするだけ。だから毎日が同じ日のように感じられる。


芹沢はひきこもり中には「不安や恐怖の感覚を訴え」ないという。しかし、将来不安や将来恐怖におびえないひきこもりなどいるのだろうか? 親に「将来どうするつもりだ」と聞かれるのは当たり前だし、自分でも「将来どうしよう」と考えるものなのではないか。芹沢は「ダメージが無い」というが、ひきこもりがそういうものなら、脱出しようと思う必要などないのはないか。


フリーターの認識についても首を傾げる箇所がある。

 フリーターを引きこもりと並べて、モラトリアムを作ろうとしている一つの青年期の姿として把握しました。ここでは社会参加という視点を入れてみます。するとフリーターの内面を、就職年齢に達しているのに(就職はしたくない人)というふうに把捉できるでしょう。

−−芹沢俊介, 2002『引きこもるという情熱』雲母書房 :41

芹沢はフリーターと就労拒否を混同している。芹沢はの中では「働いたら負け」と言っていたニート君が想像されているのだろうが、フリーターの多くは正社員になりたくてもなれずに仕方なく低賃金労働をしている労働者のことだ*1。90年代ならまだしも2002年の段階でこのようなフリーター認識をしていることは頭を抱えるしかない。

次にダメージを受けなかったことと関連しますが、その時間つまり滞在期を、引きこもった本人が肯定していることです。

−−芹沢俊介, 2002『引きこもるという情熱』雲母書房 :104

ひきこもり経験者は「ひきこもり体験を肯定する」と芹沢は言う。しかし肯定する経験者はそんなに数多くいるわけではないし、肯定する経験者であっても「後悔はしていない」というような肯定の仕方であって、やって良かった・楽しかったという種類のものではない。ましてやダメージがないというのはひきこもりを本当に取材したのかと疑わざるを得ない。

 私の観点は、引きこもりを治療対象としてみる以前に、できうるかぎり本人の現実に寄り添って考えるべきことがあるのではないか、というものです。

−−芹沢俊介, 2002『引きこもるという情熱』雲母書房 :38

芹沢はこのように言っている。


しかし、ひきこもり経験者の「後悔はしていない」というたぐいの言葉を「やって良かった」と勘違いしたり、フリーターは就職を拒否していると勘違いしてみたり……どう考えても当事者視点で物事を見ているようには思えない。

*1:先日のNHKスペシャル『フリーター漂流〜モノ作りの現場で〜』など参照