社会学は格闘技だ


社会学者の憤り方――ブルデューに学ぶ』

『日仏社会学叢書』に掲載の論文。非常に面白い。

また、ブルデューが社会闘争にくみするのは、けっして彼自身の理論に導かれての必然性によるものではない。理論の中身・自己発展の流れによるというよりは、理論を組み立てる姿勢が内なる「怒りの才」と和することにより、晩年に獲得した知的権威を武器としながら、彼は社会的活動の場に乗り込んでいけたのである。


ブルデューは「憤(いきどお)っていた」のだという。


社会学徒はマルクス主義に親和性の高い人間がわりと多い。ただ、そういう人でも反体制的な意見を言うだけで、実際に何らかの行動をしようという人はあまり多くない。ブルデューのような「怒る社会学徒」というのは実際のところ少ない。

最近の知識人(とりわけ大学教員)はそのしごとを怠っている、と嘆く。そして、いわく、その背景にはポストモダニズム的風潮がある。おかげで大学教員にも、ゆきすぎた相対主義にとらわれている者が多い。自分が「正しい」と思うことを「正しい」といえず、ついには相手に語るべき言葉を失い、あいまいに笑ってみせるだけの存在になりはてる。


やはり社会学は社会「改良」学であるべきだ。


社会学は闘うときのツールであり、闘う方法の一つだ。戦いは力任せでやってしまっては有効な結果は残すのは困難だ。戦いには戦いの「型」が必要だ。「型」とはすなわち「格闘技」のことであり、社会学は社会に相対したときの「型」になってくれる。


社会学は格闘技」なのだ。


しかし、技を磨くことに興味を持つ社会学者は多いが、実際に闘おうという人間はあまりいない。そこには斉藤悦則が言うように「怒り」が欠如しているのである。


社会学が社会「改良」学であるには「憤り」が必要だ。


「憤り」がなければ、技磨きに終始してしまう。


社会学は憤りの表現であるべきなのだ。