「選択の物語」は誰の物語なのか?

結局「選択の物語」が誰のための物語なのか?ということに尽きる。

「子どもの選択」という論理は、不登校を「子どもの意志」に帰し〈親〉を免責する点で、母性や父性の欠如を問われ「子育ての落伍者」とされてきた〈親〉の自己肯定感を回復させているのであり、「子どものため」であると同時に「〈親〉のため」の物語でもある。

−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』: 96 

貴戸が言うように「選択の物語」は「親のための物語」でもある。そして、もちろんその物語を生み出した居場所系の人たちの物語でもある。


不登校は終わらない』に登場するQさんは次のような態度をとっている。

最後に挙げておきたいのは、Qさんの「選択の転用」の物語である。Qさんは、Cさんと同様〈「居場所」関係者〉的な「選択」の物語を語る。しかし、Cさんが「よりよい物語」として「選択」を語ったのに対し、Qさんはそれが「よりよい」かどうかは棚上げし、現在ある「選択」の物語を戦略的に利用していた。

−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』: 237 

Qさんが不登校経験を持つ〈当事者〉として自身の不登校を「選択の結果」と提示することは、不登校の肯定へと〈親〉の翻身を促す効果を持つのである。「選択」の物語はベストではなくとも、「今あるいちばん大きな武器として使う」とQさんは語っている。

−−貴戸理恵,2004『不登校は終わらない』: 239 


Qさんにとって「選択の物語」は「武器」として認知されている。だから、Qさんは「選択の物語」を体現して生きている人ではない。


「選択の物語」が必ずしも当事者(経験者)の物語とは限らない。


「選択物語」が不登校当事者の物語で「あろう」という予断、もしくは「あるべきだ」という思いこみがアマゾンの書評や貴戸批判者にある気がしてならない。


評者は次のように言う。

著者でさえ結論を出し切れていません。学問と呼べる代物でなく、発表段階に至るには何年間か早かったのではないでしょうか?

これはこの本の書名が『不登校は終わらない』であるのにも分かるように、結論は何百年かかっても出ない。世間や親や支援者はそれぞれの物語で「正しさ」を獲得できて「正しい行い」ができるかもしれない。でも、当事者はそんなことが出来ない。


結論が無いからダメなのではない。


不登校を自身の体験として受け入れる当事者(経験者)にとって、不登校は一言で語れるものではなく、結論が出せるものでもない。肯定しようと思っても肯定しきれず、否定も出来ない。不登校によって発生する不利益を被りながら、それでも不登校であった自分を受け入れていくのが当事者であるなら、結論は出すことは不可能だ。


この問題には結論はない。


結論が出ないからこそ、当事者は苦しむのだ。