語る資格とは?
「当事者」という言葉。
この言葉が出てきて問題になるのは、ほとんどの場合「弱者としての当事者」だ。「ひきこもり」しかり、「不登校」しかり、「女性差別」しかり、「障害者問題」しかり。すべて、社会的に、構造的に「弱い立場」にいる人たちだ。
「弱者の当事者問題」にはいくつかの問題が併発する。
その一つは「弱者同士のつぶし合い」だ。
例えば、「不登校よりもひきこもりの方が深刻だ」と言って「不登校よりひきこもりの方が問題だ」と言ってみたり、ひきこもりの中でも「オレの方がひきこもり年数が長い」「オレは5年だ、いや、10年だ」と争う。
この争いの不毛さは言うまでもないが、ここではそのことは置いておき、なぜこのような争いが起こるかということを考えてみると、やはり、「自分こそが真の弱者である」ということによって「自の分語ることに意味がある」と主張できるからだろう。
この議論を正しいとするなら、5年ひきこもった人より、10年ひきこもった人の方の言葉の方が真実に近いと考えることができる。より弱者性を持っている人が真実に近づけると考えることが出来る。
果たしてこれは正しいか?
いや、これは間違いなく誤りだ。
先のエントリid:about-h:20050613でも書いたように当事者であることと言葉の信憑性は比例しない。「シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない」し、「本人が自分自身の状態について語っている告白は、疑わしくはないまでも、たいていどこか不十分」だ。
端的に言えば、体験を言語化するのは一種のスキルなので、「語る」という作業*1は個人の言語化能力にかかってる。このようなスキルはひきこもりを経験したからと言って得られるものでも、上達するものでもない。だから、ひきこもり経験の深刻さとひきこもりを語る資格の間に本質的な関係は存在しない。
だから、ひきこもり経験を持っていない人間がひきこもりについて語ることが可能なのだ。経験がなくても本質を見抜く非経験者もいる。ひきこもりを取材し理解するジャーナリストや経験豊かな支援者などの中には、当事者たちよりよっぽどひきこもりという現象を理解している人がたくさんいる。
ひきこもりを語る資格というのは「経験」ではなく、いかに正確に伝わる形で言語化できるかということにある。