代理表象の暴力性



「代理表彰表象の暴力性」というものがある。


id:about-h:20050104では「カテゴリーをつくるということは、多様性を葬り去り、まるで一つのモノであるかのように扱ってしまう」と述べた。ひきこもりと言っても、多種多様な人がいて、それぞれ人生も体験も環境も違うのにもかかわらず、「ひきこもり」という言葉で十把一絡げに扱う。そして、「ひきこもり」とは何かと語るとき、全員が語ることはできないから、少数の経験者などが「代表」して「ひきこもり」というものを語ることになる。


語ることのできる経験者は少数だし、必ずしも「ひきこもり」の典型だという保証もない。


そして、さらに言うなら、そこには隠蔽の暴力性がつきまとう。


比較的元気なひきこもりが「ひきこもり」について語ると、その人よりも状態の悪い人たちが隠蔽されるということになる。学歴のあるひきこもりが語ると、学歴のないひきこもりが隠蔽される。金に困っていないひきこもりが語ると、金に困っているひきこもりが隠蔽される。男性が語れば女性が隠蔽される。。。などなど


この問題を去年の段階で問うているのはid:gojopostさん。id:gojopost:20041202#p1で「女はどこに行った?」というエントリがなされている。これが、まさに「隠蔽」についてのエントリである。


このエントリはid:ueyamakzkさんに発せられている形になっているが、当ダイアリーの管理人であるabout-hという人間にも発せられている問いだし、このエントリを書いた五条さん自身にも発せられている問いだ。


「語る」ということによって立場の弱い者が隠蔽されていく・・・


これは、誰にも当てはまる。どんな弱い立場にいる人間であっても、さらに弱い立場にいる者は存在する。無限後退するような感じだ。弱者よりもさらに深刻な弱者、そして、さらに弱者へと。。。


この無限後退から理論的に逃れる術は存在しない。だから、「語る」という行為は何らかのものを隠蔽することを伴うと理解しなければならない。言語化とは何かを構築し可視化する作業のことだが、それは同時に何かを隠蔽することを必然的に伴う。


「語る」という行為には隠蔽の暴力が必ず伴う。


とするなら「語る」という行為は責任を伴わなければならないはずだ。つまり「語る」という行為によって発生する隠蔽に対して、その隠蔽を作り出す「語る」という行為そのものによって同時に責任を取っていかなくてはならない。


id:about-h:20050104では「どの暴力を引き受けることが耐えうるのかということを選択しなければならない」と書いた。これは「語る」ということの価値を選ぶか、隠蔽の弊害とを天秤にかけるという考え方だ。もし、隠蔽の罪の重みに耐えられないなら、「語り」をやめる選択を取るべきだということを書いた。


しかし、そのような罪を背負っても語る必要があるならば、「語り」は決して停止するべきではない。


ひきこもり問題というのは社会問題化に成功した問題系である。しかし、実態としてひきこもり状態にいる人が数十万単位で存在している以上は、社会問題化し続けていく必要がある。


ひきこもりの中の弱い立場にいる者の隠蔽を禁忌し、「語り」を停止することは一つの選択だ。しかし語らないという選択は、ひきこもり問題を社会問題化しないことを意味する。つまり、沈黙によってより弱い立場の者を隠蔽しないかもしれないが、その選択はひきこもり全体の隠蔽につながる。


より弱い立場の者を隠蔽を禁忌するという考え方は間違ってはいない。一つの正しさとしてあり得る。しかし、その正しさは問題系そのものを隠蔽につながる。


より弱い立場にいるひきこもりの隠蔽を禁忌することは、ひきこもり問題そのものを隠蔽することになる。




何が正しいではない。どの選択も正義と暴力が混在する。何が正しいかではなく、何をあきらめて、何を求めるかなのだ。


もし「ひきこもり」というものが問題だと思うならば、ひきこもりについて語る必要がある。このことはより弱い立場の者を隠蔽することになるが、これが「語りの停止」の論拠とはならない。なぜなら、「語りの停止」は問題系そのものの隠蔽となるからだ。


では、どうするのか?


出来ることの限界は、より弱い立場にいる者に対しての「言及と配慮」であろう。


語り手よりも弱い立場にいる者が存在すること。そのことを常に語り続けること。その上で「語り」の必要性を説くこと。そして、存在に対して常に配慮を持つこと。


おそらく、これ以上の選択も、これ以下の選択もあり得ない。


「言及と配慮」


それが代理表象の暴力への取り組みの限界である。